2話 煤原信夫

 東京で刺され、一命を取り留めたものの昏睡状態が続いていた多田ただ隼人はやと警部補がようやく意識を取り戻した。

 不甲斐ない。開口一番、多田はそう吐き出したという。

 今にも東京に飛んでいきそうな小燕こつばめを県警署員全員で押さえ付け、県警署長針塚はりづかの指示で県警内でもいちばん身軽な篠田巡査が多田の入院先の病院に馳せ参じた。同期の煤原が行くという案もあったのだが、

「煤原は残れ」

 という針塚のひと言で、待機を余儀なくされた。


 翌日昼、篠田から捜査本部に連絡が入った。

 犬飼が準備したスクリーンに、ノートパソコンのビデオ通話アプリを立ち上げたらしい篠田の顔が大写しになる。

「近い近い近い、篠田くんもうちょっと引いて」

 犬飼の指示に、篠田が眉間に皺を寄せる。

『ここ病院なんで! そんな伸び伸びお喋りできるスペースとかないんで!』

「そうなの?」

『そうっすよ。ていうか俺からは犬飼さんしか見えないんですけどみんないるんですか? 犬塚さんとマンツーでお喋りっすか?』

 訝しさの塊になっている篠田に、いるぞ、いるよ、と会議室の面々が声を上げたり手を振ったりする。手を振っても篠田には見えないのだが。

『あ、いるんだ……じゃあ始めます。まず、多田警部補についてですが、しばらく入院は必要になりますが死にません。大丈夫とのことです。お医者さんがそう言ってました』

 小燕が大きく息を吐くのが分かる。腹心の部下のことが心配で仕方なかったのだろう。

『続けます。多田警部補を刺した──人物のことですが。防犯カメラに映像が残ってました。映しますね』

 カチャカチャ、とキーボードを叩く音が聞こえ、スクリーンの映像が切り替わる。

『えー、重要参考人である八房はちふさ汐海しおみ……本人であるかどうかはまだ疑問なのですが、とにかくその八房(仮)カッコカリが時折顔を見せているというクラブがありまして。多田警部補を含む都内組が張り込みを行っていたそうなんですが』

 クラブ。映し出される映像は確かにクラブだ。客はそう多くはないが、だからこそ皆ゆったりとドリンクを片手に語らったり、DJのプレイに合わせて踊ったりと楽しげな時間を過ごしている。その中に多田隼人は、思いの外溶け込んでいた。鈍色の壁に寄りかかるようにして立ち、ドリンクを飲んだり、カウンター越しにスタッフと言葉を交わしたりと他の客と相違ない振る舞いをしている。

『あ、見えますか……この女性、この女性が例の……』

 喫煙スペースからフロアに出てきた女性に、多田が声をかけている。その動きに被せるようにして篠田の声が聞こえる。

『……例の女性ではないかと』

 多田は警察手帳を出さなかった。防犯カメラの映像なので暗色ということしか分からないが、とにかく黒っぽいワンピースを着た女性に声をかけ、フロアからエレベーターホールへと移動する。


 画面が切り替わる。


 ふたりはエレベーターを待っている。聞くところによると、八房汐海らしき女性が出入りしているこのクラブは五階建のビルの四階にあり、地下階を含めたすべてのフロアがクラブ、もしくはライブハウスなのだという。


 再び画面が切り替わり、多田と女性がエレベーターに乗り込む。映像はエレベーター内の防犯カメラが録画したものだ。四階から一階まで行くはずだったエレベーターが、二階で突然停止する。

『ここです』

 篠田の声がする。女性がエレベーターを降りようとする。多田がそれを制止する。揉み合いにはならなかった。なぜなら、二階に降りた女性がその場で多田の脇腹に刃物を突き立てたからだ。

 多田が倒れ込み、女性は二階のライブハウスへと消えて──

「おい、篠田」

『はい!』

 煤原の声に、篠田が元気に応じる。

「二階はライブハウスだと言ったな? 当日は営業していたのか?」

『してません、イベントもなく休日でした。ほら、真っ暗でしょ?』

 ほら、と言われても防犯カメラの映像ではなんとなくしか分からない。分からないけれど。

「休業中のフロアにもエレベーターは停止するのか?」

『ビルオーナー曰く有り得ないそうです。それこそ、事件や事故の現場になっては困るから、イベントがなかったり、営業時間外のフロアにはエレベーターは停止しないと言っていました』

 倒れた多田の後頭部を見下ろしていた女が、不意に防犯カメラを見上げる。


 にっこりと笑うその女は、確かに八房汐海その人だった。

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