5話 間宮カナメ

 が聴こえた、と小野おの美佳子みかこは言った。


 響野きょうの憲造けんぞうは走り去ってしまった。間宮まみやカナメは知り合いらしき男性に声をかけられている。ならば、音楽について確認するのは自分の役目だと思ってしまったのだ。


 砂浜を越え、岩場に向かう。足元が悪くなればなるほど水はどんどん透き通っていく。途中でローファーを脱いだ。ショートストッキングも脱いで、スーツのポケットに突っ込んだ。

 5分か、10分。いやもっと短い時間だったかもしれない。海水に足を浸して進んだ先に、上半身裸の女性がいた。

「あれ? 知らない顔だぁ」

 女性はそう言って、にこりと笑った。

 藍色の髪、色白を通り越して青白い肌、それに太陽の光を反射する水晶のような瞳。

 美しい女性だった。

「あ……こんにちは」

「はい、こんにちはー」

 女性が喋り始めると、途端に音楽が止んだ。あれは音楽ではない。歌声だったのだ、と小野は遅れ馳せながら気付いた。

 足首から先を海水に浸したまま、岩の上に腰を下ろす。女性は腰から下を海の中に沈めたままで、水着も下着も身に付けていない艶やかな上体を乾いた岩の上に放り出していた。

うとうとったんですか?」

「あれ? この辺の人じゃないね?」

「分かります?」

「分かるよぉ。南の方から来たのかな? でももう、クラゲが出る時期だよ?」

 細身の体、だが華奢ではない。遠くまで泳いでいける肉体を持っている女性だと思った。丸い果実のような乳房が、女性が声を発する度に小さく震えた。

「南──ほうですね。南かも」

「泳ぎに来たんじゃないなら何しに来たの」

 人懐っこい響きで女性は尋ねた。小野は小首を傾げ、

「人魚さんに会いに」

 と言った。

 女性は、この世のものではない、小野が一度も聴いたことのない涼やかな声で笑った。

 それもまた、だった。

「ああ、私に会いに! そう、そう、ありがとう。嬉しいわ」

 と、女性が右手を差し出した。握手だろうか、と思って握り返す。

 白くて冷たい手のひらだった。それでいて柔らかくて、優しい手付きだった。


 彼女が、人魚なのか。


 あまりにも非現実的だった。だが、小野は一瞬でそれを、受け入れていた。

「何か聞きたいことがある? それとも顔を見れたら満足?」

 聞きたいことは──まあ、山ほどある。山ほどあるけれど、正直に告げたらきっと彼女は、人魚は気分を害するだろう。小野美佳子は探偵だ。ほんの駆け出しでしかないが、探偵として生計を立てると心に決めて生きている人間だ。

「この辺りに伝わる怖い話をたくさん読んで……」

 だから、半分だけ本当のことを、言った。

「怖い話? そんなのあったっけ?」

「もしかしたら、人魚さんは不愉快に感じるかもしれんけど」

「あ、分かった。の話でしょう?」

 ねっねっそうでしょ、と人魚は水晶の瞳をキラキラを輝かせる。その瞳を前にすると、首を横に振ることさえできなくなった。

「ほうです……」

「この辺の人はもう慣れちゃって、怖いとか思わないんじゃないかなー。あなたが遠くの人だから、怖いって思うんだと思うよ」

「ほうですかね」

「ほうですよ!」

 人魚はまた、音楽の声できゃらきゃらと笑った。

「あれは、ほんまの話なんですか」

「うーん、どうだろうね」

 どっこいしょ、と岩の上に投げ出していた上体を両腕で持ち上げながら人魚は言った。血管が透けて見えそうなほどに白い肌が陽光の下で輝き、彼女の二の腕や手首の辺りに不思議な模様があることに小野は気付く。

 タトゥーだろうか、と思い目を凝らす。

 違う。鱗だ。

「鱗じゃぁ……」

「あら? 疑ってた? そうですよ、鱗ですよ。だって人魚だもの」

 ほら、と先ほど握手を交わした右手を差し出しながら人魚は微笑む。手を伸ばし、エメラルドグリーンの、いや、もっと不可思議な、いったい何色と称するのが正しいのか、とにかく美しい鱗に触れようとして、小野は慌てて手を引っ込めた。

「あれ? いいの?」

「ええです」

「なんで? こわい?」

「じゃなくて」

 本当にそうではなかった。怖くはなかった。

「あの──お魚は、人間に直接触られると火傷する、って聞いたことがあって」

「お! 詳しいね!」

「人魚さんもほうじゃったら、さっき、握手、大丈夫でしたか?」

「んー平気。平気じゃなかったら握手しない。でも、気にしてくれてありがとう。優しんだね」

 そう言い残し、人魚はとぷんと水の中に沈んだ。


 消えてしまった。


 濡れた手のひらを開閉しながら、小野は呆然と水面を眺めていた。


 1分ほど経っただろうか。

「待った!?」

「うわ!」

 人魚が再び顔を見せた。肌の色が変わっている。鱗の色に近い、薄い、青い、淡い、緑色に。

 だが、水晶の瞳は変わらない。大きく瞳を瞬かせる小野にまた微笑んで、

「おいで」

 と両腕を伸ばして人魚は言った。

 ──おいで?

「え……じゃけど」

「大丈夫、

「……!」

 このひとは何をどこまで知っているのだろう、と思ってしまった。

 小野は、人魚の手を取った。


「……で、これです」

 小野の言葉を疑いたくはなかったが、間宮は目一杯眉間に皺を寄せてずぶ濡れの相棒が語る一部始終を聞いた。繰り返しになるが、小野の言葉を疑いたくない。できる限り信用したい。だが。

「海の中で何かを見ましたか」

 冷静に問い掛けるのは手帳とボールペンを手にした煤原だ。なんでもいいからとにかく情報が欲しいのだろう。気持ちは分かる。

 だが、小野はふるふると首を横に振った。

「海に来るのなんて久しぶりで忘れとったんですけど、塩水の中で目を開けると、痛いんですよね……」

「それはそうですね……」

 つまり、せっかく人魚と共に水中ダイブをしたのに何も見ずに戻ってきてしまった、ということか。

 停車したパトカーの後部座席に腰を下ろした小野は、頬に髪を張り付かせたままでぼんやりと海に視線を向けている。

「よく、帰してくれたね」

「え?」

「人魚。私が人魚だったら、小野ちゃんのことそのまま海の底まで連れて行くと思う」

「ああ、それは」

 間宮の言葉に、小野が小さく笑った。

「うち、途中で苦しくなってしもうて。当たり前なんじゃけど、人間は水の中で呼吸できんのですよね。それで、人魚さんの手を叩いたらすぐに岩の上に──戻してもらえて……」

 と、そこまで言ったところで、小野はハッとした顔でスーツのポケットに手を突っ込んだ。

「ケイタイ!」

「あ、防水なんですか?」

「全然! 古いですし! じゃけど……」

 煤原の問いに、小野は勢い良くスマートフォンを差し出した。

 まったく濡れていない。

「うち、これ、地面に置いてったんじゃろか……?」

 煤原と間宮はひっそりと視線を交わす。

(妄想では?)

(小野ちゃんのこと悪く言わないでくれる!?)

(誤って水中に転落して、意識が混乱した可能性もあるだろう)

(それは……)

 否定できない。

 返す言葉を見失ってくちびるを噛む間宮を他所に、

「あ!」

 と小野が再び大声を上げた。次はなんですか、と煤原が平坦な声で尋ねる。完全に小野を信用していない響きだ。

 だが、小野は煤原の疑念をまるで気にしていない様子で、ポケットから何かを掴み出した。

「これは……なんか……?」

「っ!?」

 また小野の証言や行動を軽んじるようなら容赦無く引っ叩こうと構えていた間宮の予想を裏切り、煤原は大きく息を呑んだ。

「篠田、おい、こないだの写真出せ!」

「ぇえ!? こないだっていつ……あああっ! お嬢さん、それは!!」

 運転席に座っていた後輩らしき男性──篠田が、小野の手の中に溢れるモノを見て目を剥いた。

 ずぶ濡れのスーツのポケットの中には、小野と再会した瞬間間宮の手に押し付けられた桜の花びらのような小さな貝殻が、これでもかというほど詰め込まれていた。

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