2話 間宮カナメ
九重海岸に向かうことにした。
それこそ大勢の野次馬や都市伝説マニアなんかで大変なことになっている可能性があるが、間宮は既にこの事件に片足を突っ込んでいる。依頼を撤回されたからという理由で、これまでに起きた、またこの先起きる可能性がある事件を無視することはできなかった。
怪談バーのマスターが語る九重海岸の人魚の物語は、凄惨なものが多かった。愛する男は色狂い、体を弄ばれて殺されるだけならまだいい。その肉をひと口食べれば不老長寿になるという言い伝えを信じた男たちに油で揚げられて死ぬ、もしくは父親の分からぬ子どもを生み落とし、やはり食肉として解体される。とにかくどの物語も『人間に食われて/食われるために死ぬ』というオチばかりだった。
顔を潰され内臓をすべて抜かれた男の死体と、男たちの欲望によって心身すべてを壊された人魚。似ているようで、すべてが違う。
明け方までバーで過ごし、九重海岸へ行く、と告げた間宮を大邑は胡乱な目で見詰めた。
「正気?」
「正気」
「分かった、止めねー」
その会話を最後に、駅で別れた。
出かける前にアルコールは抜いておこうと考え、事務所のソファで暫し眠った。目を覚ますと、部屋の中に人がいた。
小野美佳子だった。
「おはようございます、間宮さん!」
「お……はよ。え、なんで? 小野ちゃん?」
「所長に聞きまして!」
少しばかり頭痛がした。アルコールのせいではない。寝過ぎたせいだ。こめかみを押さえる間宮の前によく冷えたミネラルウォーターのボトルを差し出しながら、小野がにっこりと笑った。
「うちも行きます、九重海岸」
「えっ!?」
変な声が出た。目の前で微笑む小野はふだん彼女が好んで着るさらりとしたワンピース姿ではなく、かっちりとしたパンツスーツを身に着けている。足元にはボストンバッグが置かれていて、遠出する気満々といった雰囲気である。
「いや……でも小野ちゃん……」
「すごく危険かも、なんですよね?」
これも所長に聞きました、と小野は真剣な表情で言う。
「じゃけえ、うちも行くんですよ。間宮さんだけをそんな、人殺しの人魚か人魚殺しの人間がおるかもしれん場所に放り出せません」
「う、うう〜〜〜……すごくありがたい、が……」
間宮としては、危険かもしれない場所だからこそひとりで乗り込むつもりだった。小野を巻き込むわけにはいかない。万が一彼女が怪我をしたり、想像したくもないが命を落とすようなことになったら──生涯、立ち直れずに過ごすことになるだろう。
「間宮さん」
「小野ちゃん」
「間宮さん!」
「うううう……小野ちゃん……」
迷いに迷う間宮の目の前に、サッと何かが差し出された。何の変哲もない、茶封筒だった。
「所長からです」
「え?」
大邑が、何を。
まさか現金ではなかろうと思いながら封筒を受け取り、ペーパーカッターで封を切る。
『九重海岸事件関係者リスト』
半分は見覚えのある名前だった。死体遺棄事件の暫定被害者、
「……ん?」
だが、後半は知らない名前が続く。
「誰だこれ……」
洗面所で口を濯ぎ、ついでに歯を磨きながら顔を傾ける間宮に、最後の人ですけど、と小野が口を挟んだ。
「偽名やそうです」
「偽名?」
「ほんまの名前は
「……立花!」
ご存じも何も、もちろん知っている名前だ。
立花寅彦。人斬り立花。十年ほど前まで関西圏を掌握する巨大暴力団、
だが、彼は、今は。
「日本にいないって話じゃなかったか……? 確か、それこそ十年前……」
歯ブラシを咥えたままで書棚を漁る間宮の背中に、そこなんです、と小野が言葉を続けた。
「うちの所長のとこにも色んな情報が入ってて……その、一緒に名前が書かれとる箒木さん? ですか? その人がヤクザの息子らしくて」
「ははきぎ? 聞いたことあるな、箒木組……」
寝起きの脳みそを揺さぶられているような感覚。立花寅彦、東條組、箒木左門、箒木組──。
「箒木さんのご実家が、九重海岸にあって」
小野の澄んだ声が淡々と語る。
「箒木さんは三年ぶりに故郷に戻ってきたそうです。それで、同行者が、ルイスさんって方と、劉……いえ、立花さん」
何がなんだか分からない。分からないが、分からないなりに理解できることがひとつだけある。
どう考えても良くない組み合わせじゃないか。
ブルーメタリックのビートルにボストンバッグを抱えた小野美佳子を乗せ、新宿に向かった。新宿歌舞伎町のど真ん中、地上三階地下一階の雑居ビル。その地下一階に、目的地がある。
【純喫茶カズイ】
端から見れば、看板通りの純喫茶にしか見えないだろう。カウンター席が三つにテーブル席がふたつあるだけの小さな店内に、目的の男はいる。
防弾ガラスの扉を開ける前に、間宮は真剣な目をして小野に言った。
「お店の中に入ったら、海岸の話は絶対にしないで。この店の中にいる人に身分を聞かれたら、私の友だちだって言って」
「……コーヒーの話じゃったら、してもええですか?」
「むしろコーヒーの話一択にしよう! 入るよ!」
扉を押し開ける。間宮の頭の上で、チリリン、と鈴が鳴った。
「いらっしゃい。……なんだ、探偵か」
「なんだとはご挨拶ですね。お久しぶりです、マスター」
銀色の蓬髪、淡いブルーのノーカラーシャツに紺色のエプロンを着けた老人が、カウンターの中でのんびりと煙草を吸っていた。
「そちらは?」
間宮の背中にぴったりとくっつくようにして来店した小野に、老人が柔らかく微笑む。
「恋人かい?」
「野暮なこと言わんでください」
「あの、友だちです!」
間宮と小野の台詞がばっちり被った。これはこれで少し切ない。
喉を鳴らして笑った老人が、どうぞ、とカウンター席を示した。小野を壁際の席に座らせ、間宮は手前の席に腰を下ろした。
「ブレンド」
「あ、えっと、アイスコーヒー……」
「はいよ」
穏やかな表情のままで飲み物を準備し始める老人の背中に、
「孫、元気?」
「孫? ああ、
「その、仕事の兼ね合いで」
我ながら歯切れの悪い物言いだと思う。老人──逢坂も怪訝そうな顔で間宮を見詰めている。
「なんだ、間宮……」
「ああその、えー、ですね。逢坂さん、ここは今でも、私の知ってるここですか?」
「あん?」
小野の前にアイスコーヒーとシロップ、それにミルクを。間宮の前にはブレンドを置いた逢坂が、太い眉をぎゅっと寄せた。それから形の良い目で小野をちらりと見ると、
「お嬢さんの前でそんな話を?」
「いいんです。あー。いいんです……いい、よね?」
小野が一瞬息を呑む。だが惑いはすぐに消えた。
「ええです!」
「です!」
「じゃあ」
煙草に火を点けた逢坂が、換気扇に向かって煙を吐き出しながら言った。
「ここは今も昔も変わらない。完全な中立地帯だ」
「ってことは逢坂さんが、私を撃ち殺すこともない……?」
「おい」
逢坂は完全に困惑していた。小野美佳子という初めて顔を合わせる女性の存在のせいでもあるだろう。半分も吸っていない煙草を手元の灰皿に押し込んだ老人は、
「そんな物騒なことするはずないだろ」
と、眉を下げて見せた。
「急にどうしたんだ? 間宮」
「……絶対に怒らないでくださいね」
「俺がおまえに? 怒るわけないだろ」
「絶対ですよ」
まだ熱いブレンドをひと息に飲み干した間宮は、ほとんど勢いで声を発した。
「立花寅彦が帰国しています!」
純喫茶カズイのマスターこと逢坂一威の手元で鈍色の何かが光った。
回転式拳銃を右手に引っ提げ、憲造を呼ぼう、と逢坂は呻いた。
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