5話 箒木左門

 何度目かの事情聴取を終えて宿に戻ると、既に立花の姿があった。備え付けの紺色の浴衣に身を包み、のんびりとコーヒーを飲んでいる。

「戻りました」

「おう。大変やなぁ、何遍も」

 立花の代打で大変なことになっている面もあるのだが、それについては特に口にしないこととする。左門にとっての立花は『ボス』だ。年齢も、ヤクザとしての年季もずっと上。人を殺したこともあり、逃亡生活にも慣れている。ルイスと知り合ってから、立花とも合流できたのは僥倖だった。20代の日本人とフィンランドにルーツを持つアメリカ人、それに70代……もしかしたらもっと上かもしれないが、とにかく年寄りの日本人。三人は常に奇妙なトリオとして扱われたが、それぞれに得意分野があった。手分けをして、協力をして、三人で、ここまで来た。左門には、今更ルイスと立花を手放すつもりなどまったくなかった。

「なんです、それ?」

「おう」

 ちゃぶ台の前であぐらをかく立花の膝の上に、一冊の絵本が置かれていた。『ここのえかいがん昔話』と書かれている。『九重海岸ここのえかいがん』というのは、連続死体遺棄事件が起きているこの海岸の総称だ。ちなみに町の名も九重市ここのえし九重町ここのえまちである。

「あっちこっちうろうろしとったらな、小学校に辿り着いたんや」

大釜おおがま小学校ですか? 僕、そこの卒業生です」

「ほーん。学校出とるんか、大したもんやな」

 立花は心底感心した様子で言うと、その大釜小学校のな、校長先生にうたんや、と続けた。

「事件が起きてるやろ? せやから学校もしばらく臨時休校──夏休みを長くしとるって言うとって」

「ああ……あんなのが浜辺に転がるような状態で、子どもたちを学校に通わせたくはないでしょうしねぇ」

 Tシャツを脱ぎ、デニムを放り投げ、畳んで置いてあった浴衣を引っ掴んで身に着けながら左門は応じる。小学校から高校まで、ずっとこの町で育った。大学には行かなかった。かといってヤクザにもならなかった。なっていない、つもりだった。市外にある小さな缶詰工場で契約社員として働いた。金が必要だったわけではない。人生に、『ヤクザ』以外の選択肢を探してみたかったのだ。父も母も、そんな左門を止めなかった。兄貴分たちも。むしろ応援してくれた。外の世界を知ろうとする息子を。

「で、俺は箒木左門の同行者で、今は警察に足止めされて宿におる、って言うたら学校の中とか案内してくれて。ええ先生やな。この本は図書室で借りたんや」

 箒木組が焼かれた時、左門は工場で海産物の缶詰を作る仕事をしていた。

「この辺りには幾つも民話が残っとるんやな。海が近いからか、人魚の話が多いのもおもろい」

「立花さんは、海には……?」

「縁ない人生やなぁ。街中と山ばっかりや。ここの海も、あんなじゃまくさいもんが落ちてなければもっとゆっくり楽しめたのに」

 心底残念そうな立花の隣に座布団を置いて座ると、それよか、これ、と老人が絵本を開いて左門の手に乗せた。

「なんなんやこれは」

「これ、ですか?」

 昔話の絵本に掲載されているのだから、昔話なのだろう。何を不思議に思うことがあるのか左門には良く分からなかったが、眉根をきゅっと寄せて立花の示すページに書かれたタイトルを無言で読み上げた。



 良くあるタイトルだ。アンデルセンの童話で有名なモチーフでもある。


『むかしむかし、この国でいちばん美しい海の底に、人魚の村がありました──』


 短い物語だったが、読み終えた左門の胸の中にはなんともいえない澱のようなものが溜まっていた。左門はこの物語を知っている。それなのになんだこれは。なんというか。

「胸糞が悪い……」

「オチが酷い!」

「おうルイス」

「びっくりした! いきなり大声出すなよ!」

 いつの間に帰宅していたのか、立花、左門両人の間に首を突っ込むようにして、左門が絵本を凝視していた。金糸の髪がさらさらと頬を擽る。長いまつ毛に縁取られた淡褐色の瞳が食い入るように絵本を見据えている。

「ここ、最後、だいぶ酷い」

 ルイスの長い指先が示す一文を、左門は小さく読み上げる。


『「だれか、だれか! このばけものを引っ捕らえろ!」


 捕らえられた末の娘がどうなったのかを、水底の人魚たちはだれも知りません。


 ただ、陸のおとこが住むお屋敷では三日三晩宴会が行われ、この世のものとはおもえないほどに美しい悲鳴が、毎夜静かな海を揺らしたそうです。』


「色狂いの陸の男、何も知らない人魚の小娘、それに三日三晩の宴会とこの世のものとは思えないほど美しい悲鳴──ま、何があったかは明白やな」

「酷すぎる。ふつうに泡になって消える方がまだマシ」

 くちびるを尖らせるルイスの言い分はまあ、正しい。だが少年時代からこの童話を何度も見かけていた左門としては、そうか、そんなに酷いことなのか、と新鮮な驚きのようなものがあった。

「このお話はこれで終わりなの? 人魚たちがリヴェンジするような続編はないの?」

「そんな、ハリウッド映画じゃないんだから……」

「予算があったら俺が撮りたいよ! かわいそうな妹のために陸の人間を皆殺しにするんだ」

 急に血の気の荒い発言をするルイスをどうどうと落ち着かせていたら、そこやねんな、と煙草に火を点けながら立花が呟いた。借り物の書籍は既に帆布バッグの中に片付けてある。バッグごと借りてきたのだろう。

「そこ? どこボス?」

「校長に聞いたんやけど、この人魚の話には複数分岐点があって──」

 紫煙を吐き出しながら、立花は丸暗記した文章をそのまま吐き出すような調子で言った。

「陸のおとこ、色狂いのど畜生に名前があるケースがあるらしい」

「名前が?」

 左門は思わず身を乗り出す。土地に伝わる昔話に分岐点が幾つも存在すると言うのは、この九重市九重町に限らず珍しい話ではないだろう。しかし。

「なんていう──」

 立花は、あっさりと情報を開示した。

「はちふさ!?」

「はちふさ……この町で一番いっぱいいる名前じゃなかったっけ? たしか」

 どこでそんな情報を得たのだろう、ルイスが首を傾げている。刑事の篠田にでも聞いたのだろうか。

 八房はちふさ。九重町の住民の半分近くを占める苗字。それが、人魚の物語に登場する、だって?

「そらまたおもろいこともあるもんやな、と思って、校長先生にいくつか別の本も見せてもろたんや。そしたら確かに、さっきのやつでは『陸のおとこ』とだけなっとる部分が、『はちふさの若旦那』って明記されてるバージョンが三冊ぐらい確認できた」

 はちふさ。八房。箒木左門の同級生にもその苗字の人間は何人もいた。ひとクラスに少なくとも五人はいるものだから、彼、彼女らは皆下の名前で呼ばれていた。そうこうしているうちに、彼らが『』であることを左門たち同級生はすっかり忘れてしまったのだけど。

「はちふさって何や? 左門」

「八房とは──」

 立花が何を調べようとしているのか分からない。何を知りたがっているのかも。それでも左門は、記憶の端に引っ掛かっている情報をどうにか絞り出す。

 なぜなら立花寅彦は、ボスなので。

「八房とは、確かにこの町でいちばん多い苗字です。また、この町を栄えさせたのも八房の人間であると言われています」

 その辺りは中学の歴史の授業でも習った。この町の成り立ちについて、というテーマだったか。

「荒れる海から町を守るために堤防を作り、町の外から魚釣りの達人を何人も招いて、漁港を開いたのも八房の人間です」

「漁港? そんなもんがあるんか?」

「あります。もし必要なら案内することもできます」

「ああ……続けてくれ」

 八房の人間たちは九重町を美しい海と美味い魚が食える町として大きくした。それまで土地の人々は皆ちまちまと編み物をしたり、もしくは亭主が何年も出稼ぎに出て妻子を養ったりと苦しい生活を強いられていたのだが、新しい漁港と堤防、それにこれまでは敵でもなければ味方でもない、に過ぎなかったになったことで、九重町は救われた。

「さもーん、しつもーん」

「どうぞ、ルイスくん」

「はちふさっていうのは、そもそもどこから来た人たちなの? 彼らもやっぱり、釣りの人たちと同じく外から?」

 ルイスの問いはもっともだ。少年時代の左門、それに『八房』の苗字を背負う同級生たちも不思議そうな顔で授業を聞いていた。

「いや……『八房』はずっとこの町にいた」

「いたの!?」

「立花さん、山の方には行きましたか?」

「アリバイ作りに、一応な」

 なるほどそれでは、話が早い。

「洋館があるのを見ましたか?」

「あ……?」

 煙の輪を口から吐き出しながら顔を顰めた立花はやがて、

「ああ、あれか。ひとの気配がない、幽霊屋敷みたいな」

「そこです。『八房』の一族は、そこにずっと暮らしていたそうです」

「『』」

 ルイスが呟いた。先ほどの絵本の一節だ。

「そのお屋敷が、山の中にある?」

「って、言われてる」

「ずっと山の中にいたのに、なんで急に町のために働こうと思ったんだろう?」

 それについては左門も知らない。教師もなんだかぼやかしてきちんと教えてはくれなかった。ただ、この町を広げたのは八房一族、それだけが記憶に奇妙な形で刻まれて残った。

「町にいる『八房』のうち、どの程度が人魚殺しの八房と縁があるんやろうな」

 灰皿に短くなった煙草を押し込みながら、立花が呟く。

 そんなことは誰も気にしていなかったな、と左門は記憶を手繰りながら思う。だって『八房』は人数が多過ぎて、皆下の名前で呼ばれていたから。『八房』が人魚殺しの名前だということを、皆、気にも留めていなかったから──

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