3
1話 箒木左門
かつて
殺害された左門の父親と舎弟たちの墓はどこにもない。箒木組を襲撃した組織──
それで、左門はパスポートと現金を引っ掴み、電車とバスとタクシーを乗り継いで飛行場に逃げ、一度も行ったことのない北欧の地に降り立った。
あれから三年。
「ほんっとに、……なんもないっすね」
笑っている場合ではないのに笑えてしまう。父も、母も、良くしてくれた兄貴たちも。皆いない。どこにもいない。ここには何もない。抗争、いや一方的な襲撃と蹂躙による殺人が起きた土地など誰にも売れないだろうし、博奕のつもりで新しく家など建てた日にはきっとたくさんの幽霊が出る。霊感のない左門でさえそう思う、悲惨な匂いが漂っていた。
空き地の前に立ち尽くす左門の肩を、ルイスの大きな手がぽんぽんと叩いた。
「手を合わせよう」
「え?」
そうして聞こえてきた響きに目を瞬かせる左門の前で、ルイスが目を閉じ、神妙な顔で胸の前で両手を合わせる。十字を切ったりはしない。ただ合掌する。
「ルイス」
「せやな。手ぇ合わせて冥福お祈りするぐらいが、ちょうどええんと違うか」
「! 立花さん……」
道端にしゃがんで煙草を咥えていた立花が、そんなことを言いながらふたりの側に立つ。
「骨も墓も家もなんもない」
「玄國会の、連中、が……」
「なんもないなら、恨むな、左門」
火の点いた煙草をくちびるに挟み込まれ、左門は一瞬言葉を失う。
「おまえはここにおるやないか」
「……左門! 左門のパパとママと兄弟たちに、俺から挨拶をしたよ。大丈夫。みんなきっと、天国にいるから」
立花の低く淡々とした声と、合掌を終えたルイスの明るい声。このふたりがいなければ、きっと自分はこの街に戻ってこなかっただろう。
恨むな。立花の言葉は正しい。
きっと天国にいる。ルイスの言葉は想像の産物だけど、とても優しい。
だから、ここに来るのはこれで最後にしようと左門は考える。だってもう誰もいない。何もない。恨んでも憎んでも呪っても仕方がない。誰もいないということだけはちゃんと分かった。あの時逃げて、自分だけが生き残ってしまった。そのことを後悔していないと言えば嘘になる、けど。
「花が咲いとるなぁ」
「ええ……なんの花でしょう」
空っぽの庭に、小さな花がいくつも植えられていた。左門がここで暮らしていた時には、庭には特にこれといって何もなかった。木が何本かあったぐらいだろうか。花を育てるなんていう、繊細な趣味を持つ者は左門の身内にはひとりもいなかったし。
ぽつぽつと花びらを開く可憐な紫色の花。それを見下ろしながら、左門は煙草の火を握り込んで消し、その手の甲で涙を拭った。
「さあ、行きますか!」
「どこに?」
ルイスがすぐに反応する。
「えーっとね、この近くにお肉屋さんがあるんだ、たぶん……そこのコロッケがすごく美味しくてさ。子どもの頃は良く買い食いしてた」
「いいね! 俺も食べたい!」
「オッケー、行こう!」
長身のルイスに肩を抱かれ、左門も彼の腰にしがみ付くようにして歩き始めた。新しい煙草に火を点ける立花が、そんなふたりを微笑みながら見守っている気配がする。
「……左門、くん?」
不意に、名を呼ばれた。
箒木左門はこの土地で生まれ育った。父親はヤクザだった。だから、左門のことを知らない者は街にはひとりもいなかった。
奇跡的に、いじめのような目に遭ったことはない。ヤクザとはいえ、昔気質の小さな組織だったからだろうか。活躍するのはおもに夏、海水浴の季節、バカンスシーズン。海辺で暴れる他所者をとっ捕まえて蹴り出したり、街にいくつかある小さな飲み屋やバーで良くない酒の飲み方をする者がいるというSOSを受けて駆け付けたり──そんなことばかりしていた、左門の父親とその舎弟たちは。厳密にはヤクザではなかったのかもしれない。もう何も、分からないけれど。
弾かれたように振り返る先に、片手に木桶、片手に柄杓を提げ、黒いブラウスにデニム姿の40代ぐらいの女性が立っていた。
左門は、彼女のことを知っていた。
「
「左門くん、あなた、あなた良く無事で……!」
水の入った木桶を取り落とした女性が両手で顔を覆う。左門は慌てて駆け寄って、女性──
近付いてきた立花が、黙って木桶を拾い上げている。
「僕のこと、覚えててくれたんですね」
「忘れるわけないでしょう! 左門くんのおうちがあんなことになって……みんな、心配してたんよ……」
みんな。この狭い土地のみんな。その言葉に嘘がないということは、左門自身が誰より良く理解している。
あの日。関東玄國会襲撃の日。左門の父親は当時の町内会長に土地の者たちへの伝言をした。誰も外に出てはならない。関東のヤクザたちが立ち去るまでは、絶対に家から出ず、息を殺し、目を閉じ耳を塞ぎ、何が起きても関わってはならない。
その結果があの大量殺人だ。遺体がひとつも残らなかったせいで、事件にはならなかったけれど。
「左門くん、今までどこに……ううん、それよりもそちらのおふたりは? ……えーっと、そうじゃないわね、ええと……」
「爽子さん、大丈夫です。全部説明します。まず、その、こちらのふたりは」
「ルイス・
さっと右手を差し出すルイスに、あらあら、と久野爽子は呆気に取られた様子で両目を見開く。
「日本語がとってもお上手……」
「左門の教え方が良かったんです。よろしく、さわこさん」
爽子の手を軽く握ったルイスが、淡褐色の瞳を細めて微笑む。
「で、えーっと、こちらが、」
「桶」
紹介しようとした左門を遮った立花はいつも以上に無愛想に、水が全部溢れてしまった木桶を爽子に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
「いえ」
「あなたも……左門くんとは、どこか、外国で……?」
爽子と立花のあいだには親子ほどの年齢差がある。どこからどう見ても『老人』そのものである立花の奇妙な存在感に、爽子はルイスに相対した瞬間以上に戸惑っていた。
「……
りうさん、と爽子が小さく繰り返す。確かに立花が所持しているパスポートには劉某という大陸出身の男性の姓名が書かれている。フルネームで名乗らなかったのは、下の名前の読み方を立花本人が忘れてしまったせいだろう。「
「劉さんは──その、長く日本の……関西で生活してて。それでやっぱり、ルイスと同じで、外国で、知り合って、えっと……」
左門の顔をじっと見詰めて瞳を潤ませている爽子の前ではどうにも嘘が上手く吐けない。ふたりと『日本の外』で知り合ったというのは、嘘ではないのだが。
「花」
立花が不意に呟いた。
「水やりを?」
「あ……」
と、そこでようやく爽子は木桶の中の水がすっかりなくなってしまったことに気付いたようだった。
「そう、そうなんです、私ったら」
「爽子さん、もしかして」
「……ご遺体も、おうちも、全部なくなっちゃったから。せめて手向けのお花を、と思って……」
言葉の途中で俯き嗚咽する爽子は、久野不動産というこの街唯一の不動産屋の社長夫人である。左門が小学生の頃に都心部からこの海辺の街に嫁入りして来て、当時は久野不動産の先代社長もその妻も存命だったため、誰もが彼女を「爽子さん」「久野のおねえさん」と呼んだ。左門もその中のひとりだ。久野不動産が代替わりしたのは左門が高校に上がった頃で、代替わりをしたからといってこの狭い世界がどう変わるわけでもなく、皆のんびりと生活を続行していた。
何もかもを変質させたのは、あの関東玄國会なのだ。
「左門くん」
「はい!」
物思いに耽る左門に、爽子が声を掛ける。
「あの、良かったら、皆さんうちでお茶でもどう? 左門くんがこの三年、どうしてたかも知りたいし……」
お茶。その気遣いは嬉しい。それに爽子は、どうやら三年間ずっとこの空っぽの土地に花を植え、水をやってくれていたらしい。恩人のようなものだ。だが、目一杯身分を偽証している立花と、行動の予測が付かないルイスが一緒となると──
「ぜひ。私たちも、左門の子ども時代の話などお聞きしたいです」
「重そうだから持ちますよ、えー、オケ?」
立花はニコニコと愛想笑いを浮かべ、ルイスはちゃきちゃきと爽子の荷物を代わりに持ち始めている。悩むだけ無駄だった。
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