2話 煤原信夫

「来週、警視庁からの応援が来るんですって。先輩聞いてました?」

「聞いてた」

「いや嘘でしょ。ずっとなんか落書きしてたじゃないですか」

 昨日。間宮まみやかなめと言葉を交わすことで煤原の視界は少しだけクリアになった。船を沈める人魚。美しい歌声で人間を魅了する人魚。或いはその肉を食べることで不老不死になるという伝説がある人魚──


(あの海には人魚が出る)


 もう一度現場に足を運ぶ必要があると、煤原は考えていた。間宮曰く、国内のいくつかの博物館には『人魚のミイラ』と呼ばれる展示物が存在しているそうなのだが、どれもこれも猿の死骸に魚の尾を縫い付けたような偽物ばかりで、この世に人魚が存在する、という証明には成り得ない、という話だった。

(だが、一応見に行っておくか)


 人魚 ミイラ 展示 検索


(……遠い)

 クルマの助手席で検索をかけてみるも、煤原が今いる関東圏からは遠く離れた場所にある博物館しかヒットしない。人魚の実在を確かめるために、という大義名分が仮に受け入れられたとして(おそらくしない)、遠方に足を伸ばしているあいだに新しい事件が起こった日には自責の念で卒倒してしまうだろう。自分の未来が見える。今回は諦めるか、もしくは間宮に金を払って『探偵として』人魚のミイラを確認しに行ってもらうか、どちらを選ぶべきなのか──

「す・す・は・ら・せ・ん・ぱ・い!」

「うおっ!」

 運転席の後輩──篠田しのだがいかにも不満げにこちらを覗き込んでいた。

「篠田、前を向いて運転しろ」

「ええ、俺は安全運転をしてますよ。今は赤信号ですしね。先輩がずーっとスマホを睨んでる横で、ちゃーんと真面目に運転してます!」

「……すまん」

 取り敢えず謝罪する煤原を横目でじろりと睨んだ篠田は、

「ま、いっすけど……ていうか、なんなんすか? 人魚って」

「あ?」

「資料のあっちこっちに『人魚とは?』『存在の可能性』『博物館』『人魚の肉』とかめちゃくちゃメモしてて……」

「覗いたのか?」

 今度は煤原が篠田を睨む番だった。捜査を共にする相棒同士とはいえ、他人の手元を勝手に覗き込むというのはあまりにも不作法ではないだろうか。

「覗いてませーん! 見えちゃったんですぅ!」

「同じことだ」

「ていうか、聞いてなかったでしょ? 来週から警視庁……」

「聞いてたよ」

 海辺を舞台に起きる連続殺人──いや、まだそう決めつけるのは尚早か。変死体遺棄事件とでも呼べば良いのだろうか。とにかく、観光客の減り始めた砂浜に打ち捨てられた被害者は今のところ三人。全員が成人男性で、顔面を完膚なきまでに叩き潰され、腹の中からは粗方の内臓が消失していた。

 凶器を使用した痕跡はなし。加害者のものと思われるDNAも検出されず、また、大型の動物による行動と見なすにはあまりにも傷跡が整っていた。

 柔らかい腹をナイフで真っ直ぐに切り裂いて開いたような傷口。その中にはただ真っ赤な空洞が広がっていて、会議の際、鑑識が持ち込んだ画像をスクリーンに投影した途端、狭い会議室のそこかしこで「うぅ」という吐き気を堪えるような声が聞こえていた。

 直接見ちゃった僕たちの気持ちも考えてほしいですね! と会議後の廊下で犬飼いぬかいが喚いていたが、煤原にはどちらの気持ちも分かるような気がした。


 あの日。三つ目の遺体が上がった日。煤原があの海辺にいたのは完全なる偶然だ。例のSNSで知った幽霊屋敷を覗きに行っていたのだ。煤原は、オフ会で問われていたような『見える人』ではない。何も見えない。幽霊だのおばけだのといったものに遭遇したことは、人生で一度もない。だが、怖い話は好きだ。媒体は書籍でもネットでもなんでも構わない。洒落怖のまとめページも良く見に行く。『コトリバコ』とか『晴美の末路』みたいな起承転結のある話が好きだ。今いちばん気に入っている例のSNSに漂着したのは本当に偶然だったが、ユーザーの平均年齢が高めなのと、現在属しているサークルの居心地の良さ(これは主催の人柄によるものもあるだろう)が決め手となり、頻繁には顔を出せないけれどそれなりの常連として出入りしている。


 それで、幽霊屋敷だ。あのSNSには時折についての噂が流れる。立ち入ってはいけない、関わってはいけない、話題にしてもいけない、そんなの噂が。四年前のオフ会の日、聞き役に徹していた煤原が思わず口を挟んでしまった『殺人アパート』もそのひとつだ。刑事としては捜査の管轄外ではあったけれど、捜査本部に詰めている人間の中に知り合いが何人かいた。SNSで話題に成り始めた時点で気になってそれとなく連絡を取ってみたところ、まだマスコミに流していない情報が幾つもあるという。捜査に参加した警察官が、少なからず姿を消しているというのだ。

「失踪したって意味か?」

「いや」

 知人──原田は渋い顔で首を横に振った。その日煤原は勤務日で、原田は休日だった。煤原のクルマの助手席で、彼は唸るように続けた。

「失踪はした。けれどすぐに見つかってる」

「つまり?」

 『殺人アパート』で起きた個々の殺人事件はすべて解決している。犯人が逮捕されているのだ。いちばん初めに起きた女子大生殺害事件も、次に起きた老夫婦殺害事件も、さらに三件目の男子小学生殺害事件も──すべて。にも関わらず、少し時間が経つとまた新しい事件が起きる。新しい事件の現場になる。それが『殺人アパート』だ。

大瀬おおせって分かるか?」

「大瀬さん? ……2年ほど先輩の」

「俺の相棒だったんだが、例のアパートの201号室の便所で首吊って死んだ」

 呻くように言う原田の全身から、無念、悔恨、そして「どうして」という感情が溢れていた。煤原もまた、一瞬絶句していた。

 例のアパートの201号室。3年ほど前に事件が起きた部屋だ。事故物件マニアの人間がしばらく暮らし、その後時間の経過とともに告知義務がなくなり、通常の賃貸物件と同じ扱いを受けるようになった。

「おかしいと思うだろ? 俺もだよ。大瀬さんも俺も201号室の捜査を担当していた。なのに、どうして大瀬さんだけ? それに、あの人には、死ぬ理由がっ……」

「分かった。ありがとう。言いたくないことを言わせてすまない」

 大瀬は、一昨年結婚したばかりだ。半年前に子どもが生まれた。そういう明るい話題は風の噂でどんどん流れてくる。だが、亡くなっていたとは。

「煤原」

 原田が言う。

「あのアパートは本物だ。もし、おまえの周りで、事故物件を覗いてみたいとかいう馬鹿が居たら……」

「分かってる。ぶん殴ってでも止める」

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