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1話 煤原信夫

 人魚といえば、小川未明の『赤い蝋燭と人魚』を思い出す。幼い煤原に、母が何度も読み聞かせてくれた絵本だ。

 何度も、というのは正しくない。何度か、が正確だ。

 煤原と母親の間には、『赤い蝋燭と人魚』しか思い出がない。母親は不思議な女性だった。幼い煤原に愛情を注ぐような振る舞いをしたかと思えば、父親にも息子にも何も言わずに家を出て何日も帰ってこない。艶のある長い黒髪が印象に残る、美しい女だった、ような気がする。母の掠れ声を思い出すと自然に『赤い蝋燭と人魚』のストーリーが頭に浮かび、人間のエゴで檻に入れられ売られていく哀れな人魚に母親を重ねていたことを思い出す。


「いやハラちゃんそれはキモいよ」

「俺もそう思う」

 私立探偵・間宮まみやの辛辣な指摘に、煤原すすはら信夫しのぶは即答する。たしかにあの物語に母親を重ねるというのは、だいぶ、かなり、気持ち悪い。でもそれしか思い出がないのだ。母親にも、童話にも、それに人魚にも。

「ハラちゃんのお母さんってまだ生きてるんだっけ?」

「知らん」

 アイスコーヒーにガムシロップを大量に投入しながら、煤原は即答した。煤原が小学生の頃、母親は姿を消した。父親は怒り狂った。母親を淫売と罵り、男と逃げたのだと決め付けて暴れ回った。

 父親もまた、奇矯な男だった。煤原家というそれなりに大きな家の次男坊でありながら常に飢えた犬のように振る舞い、兄、長男、現在の煤原家当主、信夫にとっては伯父に当たる人物とは大変に仲が悪い。息子である煤原信夫から見ても、整った顔立ちのいい男ではあった。父は仕事をしたことがない。煤原家が持つ土地の管理をすることで、夫婦と息子が暮らしていける程度、いやそれ以上の収入を得ていた。そろそろ還暦を越えた頃だろうか。今も、煤原が少年時代を過ごした豪邸でひとり呑気に生きているのだろう。もしかしたら、息子というコブがいなくなったのを良いことに再婚をしている可能性もある。別にどうでもいい。

「知らんのか」

「母の記憶は小学生の頃で終わりだ」

「探してあげようか?」

「……」

 目の前で煙草に火を点けている間宮は、そういえば腕利きの私立探偵だ。人捜しも得意だと聞く。検索サイトでは星3.5という微妙な数字と口コミを書き込まれていたが、

「いやまあ探偵っていっても探せるものとそうじゃないものがあるからね……」

「俺の母親は『探せるもの』か?」

「ハラちゃんがその気ならね」

 人魚みたいなお母さんか、と紫煙を吐き出し間宮は呟く。そうだ。母の思い出などどうでもいい。今日は、人魚の話をしに間宮探偵事務所を訪れたのだ。

「人魚というのは、なんだ」

「は? そこから?」

「言っただろう、俺には小川未明の童話ぐらいのイメージしかないと」

「はは〜ん……ハラちゃん、一応あのサークルの常連なんだし、もうちょっと自発的に研究とかしてみたら?」

 人魚、人魚ねえ。天井に消えていく煙を見上げながら、間宮が呟いた。

「マーメイド、ローレライ……うーん。ハラちゃんの言う『赤い蝋燭と人魚』もそうだけど、私がイメージする人魚は『破滅を招く存在』って感じかなぁ」

 意味が良く分からない。眉を跳ね上げて煙草を取り出す煤原をじっと見詰める間宮の髪が、鮮やかなエメラルドグリーンであることに不意に気付く。

「すごい色だな」

「え、今!?」

「今気付いた」

「は!? じゃあさっきまでは?」

「いつもの間宮だと思っていた」

「いつもの間宮とは!?」

 煤原の中の間宮は──いつもあのオフ会の間宮だ。5年前の間宮。黒髪ベリーショートに、両耳には数え切れないほどのピアス。それに、小指の欠けた右手。

「まあいいけど別にハラちゃんにそういう意味で好かれたいと思ってないし」

「そういえば見合いの話がきたな」

「え? 誰に? ハラちゃんに?」

「俺以外に誰が?」

「えーウケるハラちゃんがお見合いとか! する? した?」

「断った」

「なんで〜!?」

「仕事が多すぎる」

「……あー」

 間宮と会話をしているといつもこうだ。どこまでも脱線してしまう。そしてなんとなく戻ってくる。そうね、仕事ね、人魚の話ね、と吸い殻に煙草をねじ込みながら間宮が呟いた。

「ローレライってのはライン川に出るっていう化け物なんだけど、ライン川を通る船に綺麗な声で歌をうたって、その声に聞き惚れると舵を取り損ねて船が沈没しちゃうっていう」

「……職業意識が足りないのでは?」

「ハラちゃんいつか刺されるよ。でまあ、セイレーンというのもおりますね」

「それは、半人半鳥の化け物じゃなかったか」

「人魚説もあるんだな。こちらもまた歌で船を沈没させます」

 遺棄現場で出会った老巡査の言葉を思い出す。この海には人魚が出る。この事件の犯人は人魚ではないかと思っている──

「間宮」

「はいはい」

「人魚は、人間を食べるか?」

 煤原の問いに、咥え煙草の間宮が小首を傾げる。ソファから腰を上げ、空になったアイスコーヒーのグラスを片付けながら、

「逆じゃね?」

 と間宮は言った。

「人魚の肉を食うと不老不死になれるとかなんとかかんとか聞いたことがあるけど」

「不老不死……」

 人魚の肉を食べると、人間は不老不死になる。では、人間の肉を食べた人魚はいったい何になるのだろう。

 アイスコーヒーではなくオレンジジュースを持って戻った間宮が、

「で? ハラちゃんは今どんな案件を抱えているのかな?」

「守秘義務」

「こっちから情報を引き出すだけ引き出しておいてその態度はどうなのかにゃ〜?」

 にやにやと笑いながら詰めてくる間宮はエメラルドグリーンの髪をしていて、ピアスはすべてなくなっていて、右手の小指は今も欠けたままだ。人間は変化する。人魚の肉を食べた人間は不老不死になるという。不老不死になった人間は、変化を続けるのだろうか。それとも、人魚の肉を食べたその瞬間で変化が止まってしまうのだろうか。

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