第二話 闇はあやなし-10

 干からびた骸が江口で上がったのは五日前。江口に潜伏していた晴明の式神はその情報と共に、「怨霊を見た」としらせてきたのである。

 まさに、事態を動かす大きな一報だった。件の怨霊は幾度も祟りを為したが、その姿を目にした者は誰もいない。煙のごとく消えせ、しつの先さえつかませなかった。

 だが、半世紀近くを経て、ようやく怨霊の姿をとらえられた。いよいよもって、長らくのこうちやくひもかれようとしている。

「江口の町衆は、死人が出たことを隠そうと躍起になっております。鵺の話が広く出回っているのは、隠れみのとしてあえて流しているからです。なんとも愚かしい。危険を隠したところで何になりましょう。人外にとって、乙女の生き血は最上の馳走ちそう。件の怨霊のにえにされた九人はそろって気持ちの優しい娘ばかりでした。私の目の前で無残に殺された、あずさという娘も……」

 人外にとって、人は種族をたがえる生きものである。人の多くが獣や魚を食べる時に胸を痛めないのと同じく、人外もまた人の死に涙したりはしない。だが、妓女は仮の姿とはいえ、長く潜伏していると情が移るものなのだろう。あわれな娘たちの死を悼む睡蓮の言葉に偽りは感じられなかった。

「痛ましいことだ……しかし、町衆が日々の糧を守ろうとするのは仕方がない。ひとたび噂になれば、たちまち客足は遠のく。風聞ってのはいつだって厄介だ」

 少し前の三条の屋敷の一件を思い出しながら、道真は嘆息する。

 悪いことを隠そうとするのは世の常だ。事情があればなおさらで、いたずらには責められない。だが、そのせいで救われるはずの者が救われないという事態はあってはならない。

「俺の名を騙る怨霊は、かつて数々の災いを起こし、仕上げとばかりに清涼殿に巨大なこくらいを落とした。正体が鬼でも蛇でも、再び人々に累をそうというなら止めねばならない」

「件の怨霊が京に戻るのはわかっておった。そのための包囲網よ」

「それにしたって、京の入り口にあたる要所すべてに式神を配置するとはな」

 噂は耳にしていたが、まさかここまで絶大な力の持ち主であったとは。安倍晴明という存在のすさまじさに、道真はおそれ入るばかりだ。

 たいの陰陽師とはいえ、これほどの厳戒体制を敷く負担は軽くないだろう。にもかかわらず、半世紀近く続けてきているのだから、まったく並ならぬ精神力だ。

「そうまでしても、我は件の怨霊をはらいたいということだ。次こそ絶対に逃がさん」

 口調も表情も静かなことが、かえって晴明の内なる闘志を物語っていた。

「それにつけても、たびはよくやってくれた。礼を言うぞ、睡蓮」

 晴明のねぎらいに、睡蓮は少し表情をなごませたものの、すぐにしようぜんうなれる。

「有り難いお言葉……ですが、私はじくたる思いでございます。恥ずかしながら、件の怨霊の侵入にすぐには気づけませんでした。おそらく、半月近く欺かれていたかと」

 睡蓮は切々と苦い胸の内を語る。

「まこと恐ろしきやからです。闇に潜み、じわじわと水面下で江口をむしばんでいき、気づいた時には九人もの娘たちが無残に屠ほふられ……私が為せたことは、悠々と江口を去らんとする彼奴きやつのあとを追うだけでございました」

「そのとき、姿を見たのだな?」

「はい。江口の水流に乗じ、なんとか追いつきました。ですが、あまりの力の前に為すすべもなく。むざむざと梓を見殺しに……」

「敵の凶悪さを思えば、やむを得まい。姿を捉えられただけで上々としよう。して、件の怨霊はどんな姿をしておった?」

晴明の問いに、睡蓮は一拍の緊張を置いて、朱の唇を開いた。

「若い僧でした」

「僧……?」

 問い返す道真の声はどこかいぶかしむようであった。

「ええ。見目だけは怨霊とは思えぬほど清らかで……途方もなく禍々まがまがしい怨嗟えんさたぎらせながら、いとも涼しげな顔をしていることが恐ろしゅうてなりませんでした」

 道真は黙り込む。

 その表情には困惑がありありと浮かび出ていた。

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