第二話 闇はあやなし-9

 瀬戸内せとうちの要所、渡辺津わたなべのつから淀川を上れば、ほどなく江口――美しい女たちが集う町にたどり着く。

 陰陽寮で幾度も居所を問われていた道真だが、では何処にいるかといえばここ、かねて示し合わせていた男と共に江口を訪れていた。

 湾を臨む江口には水路が多数入り組んでいる。妓女ぎじよたちの多くは小端舟に乗り、水上で客を誘い、そのまま川辺に並ぶ館へ招く。なんとも合理的で無駄のない運びだ。

 連れの男に導かれ、道真が足を運んだのもそんな江口らしい建物、小舟で桟橋にぎ着けて、そのまま上がり込むことができる小さな堂宇だった。

 謡いや楽器で客の気をく江口は常に音曲でにぎわっているものだが、中心から外れた場所にある堂宇は静かで、とうとうとした川の流れが響くばかりだ。

「お待たせしました」

 連れと並んでしとみどのそばに座り、小雨が降り注ぐ川面かわもを眺めていた道真は、陸とつながる橋を渡り、堂宇に入ってきた者に視線を向ける。

 現れたのは、妙にひんやりとした空気と磨き抜かれたつやをまとった妙齢の女。そでのないはいと大袖の上衣を重ね、胸の下で帯を締めた身なりはいまでは珍しくなった朝服だった。

 道真にすれば懐かしい装いの女は足音ひとつたてずに進み、膝をつく。滑るような仕草に添い、肩にまとった領巾ひれが優雅にはためいた。

「遅くなって、申し訳ありません。少しばかり客が立て込んでおりましたので」

「構わん。妓女として潜伏している以上、そちらの務めも大事だ」

 連れの男が女に答える。

 首元で束ねられた男の髪は目映まばゆいばかりの白銀だが、真っ直ぐに伸びた背にも張りのある声にも老いのかげりは一切ない。また、六尺を超えるであろうたいは堂々とたくましく、特に吉平とそっくりな色彩が渦巻く双眼がただならぬ威風を放っていた。

「滅相もありません。私は貴方あなたしもべでございます。お召しとあれば、いつでも参上つかまつります。晴明様」

 女から恭しく名を呼ばれ、男――安倍晴明はうなずく。

 これが噂の陰陽師だと聞けば、驚く者が多いに違いない。とにかく、そのふうさいは術士というより武芸者めいている。

「さて、早速だが話をはじめるとしよう。道真、この者はすいれんという。我の式神のひとりだ」

 晴明の言葉に応じ、睡蓮は道真に膝を向けると、改めてこうべを垂れる。

「睡蓮と申します。以後、お見知りおきを」

「ああ、こちらこそよろしくな」

「睡蓮は水の精、いわゆるみずちの一種だ。水郷の監視役に適していると思い、妓女として江口に潜んでもらっている」

「なるほど、それで足音がしないのか」

 道真の言葉に、睡蓮が含むように笑う。

 その際、睡蓮の口元からあやしいきばのぞき見えたが、道真は見て見ぬふりを貫いた。

 行夜はあずかり知らぬことだが、京に上って以降、道真は晴明とよしみを通じてきた。

 自分が陰陽師になりたいと言い出したから、道真が口利きのために晴明とこうを結んだと行夜は思っている。もちろん、それも正しいが、実のところ道真にはもうひとつ大きな目論見もくろみがあった。

 道真はずっと、己の名をかた怨霊おんりようの正体を確かめたいと思ってきた。

 そして、京を禍事まがごとから守る陰陽師、安倍晴明もまた同じ思いを抱いている。

 たたりのとどめとも言える落雷事件当時、晴明はわずか九つの童であった。仮に怨霊や物のがどれだけ暴れようと、対処せねばならない歳ではもちろんない。

 にもかかわらず、くだんの怨霊を取り逃がしたことは、深い悔恨として晴明の胸に刻まれているらしい。幼い頃から、術士として並々ならぬ矜持きようじを持っていたのがうかがえる。

 京を逃げおおせた怨霊が鳴りを潜めてからも、晴明は何十年もたゆむことなく捜索を続けてきている。神の規律に縛られ、自由に動くことができない道真にとって、安倍晴明という意欲も方策も備える存在はまさに渡りに船の存在であった。

「国中を旅して回っている俺の眷属けんぞくが、奥羽おううで干からびたむくろぬえが出た話を聞いたのがおよそ半年前だ。女か男か年寄りか童か、まるで見分けがつかない状態だったらしい」

 道真の話に、晴明はうなずく。

「鵺はともかく、干からびた骸はかつての祟りの際と同じだな。まず、件の怨霊の仕業とみていいだろう」

 晴明の言う〈かつて〉とは、所謂いわゆる菅公かんこうの祟り〉が起こりはじめた頃を指す。無論、道真の仕業などではないが、世間は疑いもなくそうだと信じ込んでいる。

 各種の天変地異に続き、道真の冤罪えんざいに関わった貴人たちの死、そして延長えんちよう八年(930年)の清涼殿落雷に至る約二十年間、京周辺では干からびた骸が度々上がった。

 検非違使の調べによると、目立った傷がないにもかかわらず、骸はどれも血がそっくり抜かれていたという。検非違使たちも力を尽くしたようだが、結局すべて解決できなかった。

「自分の神域以外をぎ回るのは難儀でな。以降は足取りがつかめずにいたが……すでに江口まで来ていたとは」

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