第二話 闇はあやなし-5

 しとりしとりと、そぼ降る雨が都の地を潤す、梅雨の夜更け。

 朱雀門を出てすぐ、神泉苑しんせんえんの西側には式部しきぶ省に属する官吏養成の学舎、大学寮だいがくりようがある。

 陽の高いうちは大勢が行き交う学舎もいまは静かで、陰鬱いんうつな雨音だけが響いている。

 ふと、雨の滴りにじゅわ、じゅわりと異様な音が混ざり出す。

 音の正体は蔵の小窓から吹き出したおどろおどろしい黒煙。それはまるで意思があるかのようにい進み、ずるりと窓から抜け落ちると、一塊となって地面にうずくまった。

 暗いくらい雨の中、黒煙は不気味にうごめきながら、ゆらゆらと立ち昇っていき……見る間に人の形を成す。

 闇と雨滴で判然としないが、小柄でせた男だろうか。血の気のないその唇から発せられたのは人語か、それとも物のの叫びか。

 ただ、とらえられる者ならば、それが白居易の漢詩の一節であると気づいたであろう。

 ばんにん行楽し、一人うれう。

 すべての人々が喜び笑う中、私ひとりだけが悲嘆に沈んでいる、と。


**********


 鈍色の小雨が降り続く、夕暮れ時のみやこ

 檜垣行夜は大路を行きながら、雨けのかさの下で目を細めた。

 果てにそびえ立つ朱雀門を前にして、あんの息が漏れる。やっと戻って来られた。いささか大袈裟おおげさとはいえ、そう思わずにはいられない。

 今朝方、陰陽寮に着くなり、行夜は上役から外回りの供を命じられた。

 寝耳に水の言いつけだったが、もちろんとやかく言える立場ではない。これも務めとはらくくり、朝からいままで、上役のうしろについて貴族の屋敷や寺を回ってきた。

 歩を進めるごとに大きくなっていく朱雀門を眺めながら、行夜は徐々に慣れない務めの緊張を解いていく。だが、門のそばで検非違使けびいしたちが行き来する様を目にすると、再び眉間みけんにしわが寄ってしまう。

「大学寮はまだ落ち着かぬようだね」

 行夜を強引に駆り出した上役――安倍吉昌がふり返り、声をかけてくる。目深にかぶった笠をかかげ、肩越しに視線を流す姿は優美そのものだ。

「得業生試に落ちたもんじようしようが思い詰め、大学寮の書庫で咽喉のどを突いて自死しようとしたのですよ。私にすれば、他人事ひとごととは思えない話です」

 大学寮とは主に紀伝道きでんどう――異国の正史や詩文を学ぶ官吏育成機関で、道真の古巣にあたる。

 そこでは指南役の文章博士の下、文章生および、見習いである擬文章生たちが昼夜を問わず勉学に励んでいる。文章生の中でも特に優秀な者は文章得業生となり、官職登用試験の対策が受けられるようになる。即ち、職を得る道が開かれるという訳だ。

 ただし、枠は二名だけとかなり厳しく、さらに昨今は設問のろうえいといった権力や金銭絡みの不正の横行がみられるともっぱらの噂だ。うしろ盾がなく、自身の実力だけが頼みという者が犠牲になったこともきっとあるに違いない。

 現に、自死を図った文章生は給付金を受けられるほどの秀才だった。五度目の試を前に、これが最後の覚悟で挑むと語っていたという。

 実力不足の落第なら自死沙汰さたなど起こさなかったかもしれない。だが、それだけと思い切れない何かがあったのだろうか。

「世に不義不正はつきもの。勤勉と誠心が必ずしも報われるとは限らない」

 黙り込んだ行夜の胸中を汲み取るかのように、吉昌がささやきかけてくる。

「でも、汚泥が玉をけがすのではない。玉が輝きを失うのは自ら諦めた時だけだ」

「……腐ったら負け、ということですか?」

「まあ、そんなところかな」

 吉昌は意味ありげにほほえむと、視線を前に戻し、再び歩き出す。

 行夜はあとに続きながら、いま一度、大学寮に視線をせた。

 この騒動について、道真とはまだ話をしていない。この三日間、珍しく道真が家を空けているからだ。

 日頃から方々ぶらぶらしている道真だが、日をまたいで家を空けることはこれまでなかったため、「三、四日ほど留守にする」と告げられた時は正直驚いた。

 自分のことは自分でこなせるので別に困りはしない。加えて、道真と行夜は老夫婦が暮らす邸宅の離れを借りて暮らしているのだが、家主の妻女が親切で、折に触れて世話を焼いてくれる。それがあるから、道真も気兼ねなく出かけられたのだろう。

 しかし、そうは言っても。

「……腹が立つ」

 さやかな雨音に紛れて、行夜はぼそりと不満を漏らす。

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