第二話 闇はあやなし-4

 手古は不機嫌そうにまゆひそめつつも、何か言いたげな顔で道真を見上げていたが、結局口を開かないまま、ぷいと背を向ける。

 しかし、数歩進んだところで、手古は足を止めた。

「菅原道真っ。手古はおぬしの甘言に惑わされたりはしない! だがっ……鶯の弔いには感謝する。今後、庭の梅が咲いたら、菅原の屋敷に向かって手を合わす」

 道真に返事をする間を与えず、手古は性急に言葉を継いでいく。

「これからも手古は修練に励み、父上のような立派な公卿くぎようとなってみせる。絶対、おぬしに負けたりしない。覚悟して、待っておれ!」

 背を向けたまま、手古は宵闇に向かって言い放つ。

 それは道真というより、むしろ己に言い聞かせているように感じられた。

 一方的な宣戦布告を終えると、手古は足早に去っていく。

 暗中に消えていくきやしやな背中を見送りながら、道真は苦笑を漏らした。

 一応、官職に就いてはいるが、道真の現職は式部少輔しきぶのしよう。官位は従五位下で、最高行政者たる公卿などはる彼方かなたかすみの向こうだ。

 官人即ち公卿と考えるあたりは、やはり藤原の御曹司の不遜ふそんうかがえる。しかし、手古はあの歳で己の立場と向き合い、責任を果たそうとしている。その気概は童だからと侮っていいものでは決してなかった。

「覚悟せよ、か」

 実際のところ、成長すれば手古は出自と家柄で必ず朝廷の重職に就く。そのとき、自分はどんな立場にあり、何を志しているのか。

 官職に就こうとも、己の本分は学者だ。常に学び、そしてそれを伝える。その原点を忘れたことはない。けれど、実際にまつりごとに関わるうちに、学者の領分を超えた〈望み〉を抱きはじめている。

 頭の中の理想など、所詮しよせん学者の絵空事だとわかっている。しかし、だからといって何の努力もしないまま、どうせ無理だとあきらめたくはない。たとえわずかでも、この国を、皆の暮らしを良くできるのであれば、足搔あがく意味はきっとある。

「明日、早花そうかまさに更にろしかるべし……まだまだ精進せねばならんな」

 今後、手古と自分の人生が交わることがあるのかどうか、それはわからない。だが、それでも幼き日に負けぬと誓った相手が、こんなつまらないものだったのか、などとがっかりされたくない。

道真は決意を確かめるように懐中に触れ、きびすを返す。

 そろそろ、宴もお開きになる頃合いだ。ひそかな取り交わしが基経に気づかれることもないだろうが、手古との約束を守るためにも早々に辞去したかった。

 これより二十年のち、時平となった手古と道真は左右の大臣として朝廷に並び立つ。

 そして、時平によって道真は大宰府に追いやられ、非業の死を遂げる。

 先に待ち受ける運命など知る由もないまま、道真は梅の香満ちる庭をあとにした。

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