第二話 闇はあやなし-2

 基経がそんな風に話していたこともそうだが、それ以上に己の存在が幼い童の心にかげりをもたらしていることに胸が騒ぐ。たじろがずにいられないほど、手古のふたつの目に宿る憎悪はくらかった。

「詩が詠めるのがそんなに偉いか? 異国の史書に通じるのがそんなにすごいか? 手古は絶対に、おまえに負けたりしないっ。必ず父上のあとを、藤原を継ぐに相応ふさわしき者になってみせる! わかったら、さっさとね!」

 手古は両腕を伸ばすと、体当たるように道真の胸を突いてくる。

 とはいえ、しよせんは童の力。道真は微動だにせず、むしろ突いた反動で手古の方がうしろ向きに踏鞴たたらを踏み、よろめいた。

「危ない」

 道真は慌てて、反っくり返りそうになった手古の腕をつかむ。

 おかげで手古は転倒を免れたが、弾みで懐から料紙の包みが地面にこぼれ落ちた。

「あっ……!」

 手古は悲鳴にも似た声を上げると、道真の手をふりはらい、地面に落ちた包みに飛びつく。

 一瞬の出来事だったが、料紙に包まれていたものがうぐいす亡骸なきがらであったのを道真はしかととらえていた。

「……なるほど。その鶯を弔おうと」

 地面にへたり込んだ手古は答えず、料紙ごと鶯を抱え込む。

 青ざめ、小刻みに震える手古の様子から道真は察する。

 手古にとって、鶯の弔いは誰にも知られたくない秘密なのだ。だから、供も連れず陽が落ちてから庭に出た。道真が声をかけた時も亡骸を隠した。理由は判然としないが、目の前の童がひどく思い詰めていることだけはわかる。

 道真は手を伸ばし、固く握りしめられた手古の両手に触れる。

 手古はびくりと身を震わしたが、手の中の亡骸を気にしたのか、今度はふりはらおうとしなかった。

「このことは誰にも、お父上にも話しはしない。だから、心配しなくていい」

 道真はしんな想いで手古に語りかける。

 細かな事情までは汲み取ってやれずとも、せめて小さな体をさいなむ不安をわずかでも取り除いてやりたかった。

「鶯は梅のみつを好むゆえ、その根元に埋めてやりたいと思ったのだろう? もし、手古殿が構わぬなら、俺も一緒に弔ってやりたいのだが」

 手古は唇を引き結び、黙り込む。

 けれど、誰にも話さないという道真の言葉で多少はこわりが解けたのか、やがて途切れ途切れに話しはじめた。

「……手古が悪いのだ。手古が欲しいと言わなければ……」

 花から花に飛び、さえずる姿が愛らしく、下人に捕まえさせたものの、く世話ができずに死なせてしまった……話しながら、手古は手を開き、鶯の亡骸を見つめる。

「手古がこれを殺したのだ。そう思うと、悲しくて怖くて……だが、この胸の内は誰にも知られてはならぬ。特に父上には……」

「何故、そんな風に思う? 仮に話せば、基経様は手古殿を𠮟るのか?」

「父上は𠮟ったりはせぬ。けれど、繰り返しおっしゃるのだ。ただの貴族の子息なら、人並みで構わぬ。だが、手古は藤原ほつの嫡男。凡夫のままでは許されない。だから、手古は情けを捨てねばならない。それではじめて、凡夫は才人と並び立てる」

 ごく当たり前のように語る手古を、道真はぼうぜんと見つめる。

 権勢を得るためならば手段は選ばない。藤原という一族の恐ろしさはとくと知っているつもりでいたが、まさか幼子のうちからこんな教えをたたき込まれていたとは。

 道真も人の親だ。子を想う気持ちは解せる。藤原を継ぐ者の生路の険しさを、基経は誰よりも知っている。だからこそ、同じみちを行かねばならない手古に厳しくあたるのだろう。徹底して鍛え上げねば、生き残れないとわかっているから。

 頭の一端では理解できる。だが……苦い痛みに顔をゆがませる道真の前で、手古は意を決したようににじみかけていた涙をそでで乱暴にぬぐう。

「そもそも、弔おうと考えたのが間違いであった。藤原の嫡男に情けなど無用っ」

 手古はわめきながら、鶯の亡骸を投げ捨てようとする。

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