第二話 闇はあやなし-1

 菅原道真が藤原時平とはじめて出会ったのは元慶がんぎよう三年(879年)の春のはじめ。張り詰めていた氷が緩み、ようやく陽射しにぬくもりが感じられるようになった頃だった。

 当時、まだ人として生きていた道真は、朝廷の第一人者である藤原もとつねから文才を高く評価されており、度々書状の代筆を任されていた。

 様々な頼み事に交えて、基経はしばしば道真を私的なうたげに招いた。酒を酌み交わす時の基経は朗らかで、詩文について語り合うことを好んだ。残忍非道と周囲のみならず身内からも恐れられ、事実情け容赦ない人物であったが、一方で美しい詩を愛する柔らかい心も持っていた。

 その日、大きく造り変えた庭の披露に招かれ、道真は基経の屋敷に足を運んだ。

 普段はしやに走ることのない基経が、珍しくぜいを凝らしたという庭園は素晴らしく壮麗なものだった。橋の造作や塗り、池や岩の配置はこだわり抜いているが、木々や草花はあるがままの姿で伸び伸びとしている。そして、殊に力を注いだと基経が語った、名木をそろえた梅園は見事のひと言で、花の盛りのいまにあってはまさに仙境と呼ぶに相応ふさわしい風景を生み出していた。

 一通り見物が済めば、お決まりのように次は酒宴となる。酒が進み、皆が酔っ払ってきたことを確かめると、道真はこっそり抜け出し、梅園へ足を運んだ。

 想像通り、かがりびに照らされ、宵闇におぼろと浮かび上がる梅花の群れは幽玄で、見る者を酒とは違うめいていいざなう。

 道真はうっとりと息を吐き、つまびらかに姿が見えぬからこそ、いっそう芳しく感じられる花香をたんのうする。黄昏たそがれの梅花をじっくり眺めたくて、酒宴ではそれと気づかれないように杯をかわし続けた。酒も嫌いではないが、やはり折々の季節が醸す美にはかなわない。

 頭の中で一句、二句と漢詩をつづりながら、道真はゆるゆると歩を進める。

 しばし、道真は星のように輝く梅花を夢中で眺め回っていたが、ひときわ大きな紅梅にふと目を留めた。

 木の根元で、何かがごそごそと動いている。紛れ込んだ野犬か、それともまさかぬすつとか……用心しながら、道真は暗がりに目を細める。

 注意深く眺めるうちに、それが童であるのが見えてきた。危険な存在ではなかったことにあんしながらも、今度はいぶかしさに駆られ、そっと声をかけた。

「そこで何をしている?」

 優しく問いかけたつもりであったが、童は大いに驚いたらしい。慌ててこちらをふり仰ぎ、立ち上がる。その際、童が懐中に何かを隠したが、道真はあえてそこには触れず、ゆっくりと近づいていった。

「篝火があるとはいえ、暗くなってから庭に出るのは危ないぞ。万が一、池に落ちたりすれば一大事だ」

 距離を詰めるごとに細かなところが見えてくる。まだ角髪みずらの、七、八歳くらいの男の童だった。この庭が屋敷の私的な場所にあり、また身なりが大層良いことから、基経の子息とみて間違いないだろう。そう思って見れば、面差しに基経を彷彿とさせる箇所があった。

「俺は菅原道真と申す。今宵、基経様の宴に招かれ、ここに参った」

 道真は童の前で立ち止まると、その場にかがみ、視線を合わせる。

「基経様の子息とお見受けするが?」

 童は半ばにらみつけるように道真を見返していたが、やがてうなずく。

「藤原基経が嫡男、だ」

「手古……ああ、お父上と同じ幼名だな」

 基経から聞いた話の中に、そんなくだりがあったことを思い出しながら、道真は手古に笑いかける。

「では、手古殿。ひとりでおるにはそれなりに事情もあるのだろうが、先も言ったように夜の庭は危険だ。せめて誰か供を――」

「……菅原道真。その名、父上から何度も聞いておる。学識にけた、たぐまれなる才人だと」

 手古は道真の言葉を遮り、強い口調で話し出す。

 いきなりのことに瞬く道真を余所よそに、手古はせきを切ったように言葉を続ける。

「父上はいつもおっしゃる。どれほど努めたところで、おまえは精々人並み、道真のように才知で他を圧倒できる器ではない、と」

 思いも寄らない言葉を投げつけられて、道真はただただ驚いた。

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