第一話 目にはさやかに見えねども-27

 誰もが温かな気持ちで花野を見守っていた。しかし、行夜の視界の端で不意にこそりと黒い影がうごめく。

 見咎みとがめた行夜から逃げるように、蜘蛛の物の怪はしゃらしゃらと花野の肩から背、背から腰をつたい、板敷に降りていく。

「行夜」

 ほとんど呼気に近い道真の声。

 行夜はうなずくと、板敷をい進んでいた蜘蛛を両手で捕まえる。

 重ねた手の中に蜘蛛を閉じ込めたまま、行夜は軽く力を込める。ほどなく、しゅわりと葉擦れに似た音をたてながら、手の内がほのかに青く光った。

「……行夜様? 床に何か?」

「いえ。羽虫かと思いましたが」

 尋ねてきた夕星に、行夜は閉じていた両手を広げてみせる。

 鬼火で焼き尽くされた蜘蛛の灰燼かいじんが風花のように散っていったが、見鬼の力を持たない夕星の目には映らない。

「気のせいだったようです」

 淡くきらめく飛散を見送りながら、行夜は静かに答えた。


 庭の片隅で安柘榴ざくろの朱色の花がひときわ鮮やかに輝いている。陽光にきらめく花弁の目映さに、簀子縁すのこえんに座った安倍吉昌は目を細めた。

「陰陽寮の方と聞いたので、もしやと思いましたが」

 衣擦れの音に添う、懐かしいとも、いささか恐ろしいとも感じる声音。

 吉昌が視線を移せば、安柘榴の花弁を思わせる、鮮やかな朱赤のうちぎをまとった夕星の姿があった。

「吉昌様、お久しゅうございます。そこかしこでささやかれている色い噂にたがわず、お元気そうでなによりですわ」

 夕星は優雅にすそをさばき、吉昌の隣に座る。

「はて、噂については身に覚えがないが、この通りつつがなく過ごしているよ。夕星こそ健勝でなによりだ。ところで、安柘榴の花が見事だね。思い返せば、私たちがはじめて出逢であったのもちょうど――」

「それで? 本日は如何いかなるご用件でお越しに?」

 口調こそ優しいものの、夕星はずばりと本題に切り込む。どうやら昔語りに興じるつもりはないらしい。

 吉昌は寂しげに肩をすくめてから、訪問の用件について話し出す。

「先日の無沙汰ぶさたびと、その後の様子見に。元は私に持ちかけられた相談事だ。遅ればせながら、きちんと知っておかねばと思ってね」

「それは御親切に。ですが、お詫びなんてとんでもない。吉昌様がお越しになられなかったからこそ、私は道真様という、かけがえのない御方に巡り逢えました。心から感謝を申し上げますわ」

「まあ、道真殿が至極特別な方であるのは認めるが。それにしても随分な褒めようだ」

「当然でございましょう。それだけの御恩を賜ったのですから」

 夕星は視線を蒼穹そうきゆうせると、胸に手をあて、なまめいた吐息を落とす。

「まるで夜半の月のような御方。暗がりに迷う者の手を優しく包み、導く」

 恋に酔う女人は得も言われぬほど美しい。

 終わった恋に未練はないが、以前は己があのまなしを受けていたと思うと、なにやら口惜しく思えてしまう。じわりと広がった苦味を空咳からせきで誤魔化し、吉昌は口を開く。

「花野、だったか? くだんの女房殿も息災で?」

「ええ。櫛の行方がわかったことで落ち着かれ、見違えるほどお元気になられました」

「それはなによりだな」

「本当に。とはいえ、三日後に播磨はりまに発つと聞かされた折にはさすがに驚きました」

「播磨?」

「そちらの郷士様に嫁がれるのです。急とはいえ、きっと良いご縁になりましょう」

「善は急げとも言うからね。いや、まさに万端滞りなく。安心したよ」

「お心遣い、ありがとうございます。三条の上様にも伝えておきますわ」

「よしなに頼む。では、これにて失礼しようか」

 早々に腰を上げた吉昌をとどめるでもなく、夕星もまた立ち上がる。

「ああ、そうだ。想い人にことづけは? 私でよければ預かるが?」

 立ち去りかけた足を止め、吉昌はふり返る。

 面倒見が良いというか、なんというか。くすりと、夕星は笑みをこぼす。

「必要ございません。申しましたでしょう、あの御方は夜半の月だと。手が届くと思うほど、私は自惚うぬぼれ屋ではありませんの。どこかの殿方様と違って」

 やんわりと吉昌にとげを刺しながら、「なにより」と夕星はつけ足す。

「いくつになっても、可愛い盛りの子には勝てない。でしょう?」

 目を丸くする吉昌にほほえんでみせて、夕星はきびすを返す。

 かぐわしい香りを残し遠ざかっていく背姿うしろすがたを見送りながら、吉昌はつぶやく。

「なるほど。女人は美しくたくましく、それ以上にさとい」

 おお瑠璃るりの澄んだ鳴き声が高く響き渡る。

 京はまた、次の節気を迎えようとしていた。

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