第一話 目にはさやかに見えねども-26

 信じると決めたものの、さぞかし不安な一夜を過ごしたのだろう。迎えに出てきた夕星はやや沈んだ表情をしていたが、櫛くしが見つかったと聞くと、まぶしいほどに顔を輝かせた。

「本当に、たった一日で探し出してくださるなんて。重ね重ね、御礼を申し上げますわ。道真様、それに行夜様も」

 何度も礼を口にする夕星に導かれ、道真と行夜は花野のもとへ向かう。

 薄暗い部屋で、昨日とほとんど変わらぬ姿のまま、花野は眠り続けていた。

 その悲しみに巣食う蜘蛛くもの物のも、変わらず花野の胸の上にうずくまっている。

 横たわる花野を挟み、奥に道真、手前に行夜と夕星が並んで座る。

「昨夜も二度ほど目を覚まされましたが、相変わらず櫛くしを求めるばかり。身を起こすこともままならず、声も弱々しくなる一方で」

 夕星が憂いを帯びた吐息を落とす。

「なに。櫛が戻ったと知れば、見る間に快癒されよう。行夜」

 心積もりはいいかと問う道真の視線に、行夜は強くうなずく。

「では、これより比翼の櫛を花野殿にお返しする」

 道真はやや身をかがめ、ゆっくりと花野に語りかける。

「花野殿、花野殿。目を覚まされよ。お探しの比翼の櫛をお持ちしたぞ」

 だが、花野はぴくりとも動かない。蜘蛛もまた同じ。

「花野殿。さあ」

 再び道真が声をかける。今度もまた、何の反応もない……ように見えたが、しかし。

 蜘蛛がかすかに身じろぎ、じりじりと動きはじめる。油断なく行夜が目で追う中、蜘蛛は細長い八本の足をにじらせ、花野の胸から肩のあたりに移動していく。

 そうするうち、花野の睫毛まつげが、咽喉のどが、さらには指先がぴくりぴくりと震え出した。

「……う、あ……く、櫛……」

 花野はひび割れた声を漏らしながらまぶたを開くと、視線を彷徨さまよわす。

「左様。比翼の櫛はここに」

 道真は懐に手を入れ、萌黄もえぎ色の小さな布包みを取り出すと、花野に差し出した。

「あ、ああ……」

 花野はか細い声でうめきながら、震える手を伸ばす。

「ご覧あれ。探し求めていた櫛を」

 道真が包みを解く。けれど、現れたのは櫛ではない。萌黄の布に包まれていたのは一枚の風切羽かざきりばね。その深緋こきあけの羽におびえたかのように、花野はびくりと手を止めた。

「……ちが……これでは……」

「いえ。これは間違いなく、花野殿が夢にまで求めた比翼の櫛くしです。いや、その成れの果てと申すべきでしょうな」

 花野は小さく身を震わせながら、問うような視線で道真を見つめる。

「並はずれた情念は時に物に生命を与える。あなたの想いが募りに募り、いつしか比翼の櫛には命が宿った。だから、櫛は鳥に姿を変え、飛び去ったのです。これ以上、花野殿を悲しませることのないように」

 道真は布を床に置くと、そっと羽を取り上げる。

「私を、悲しませぬために……?」

「そうです。比翼の櫛の一番の望みは花野殿の幸せだった。だから、散った恋の化身となった己はそばにいるべきではないと考えたのでしょう」

 道真はほほえむと、花野に羽を差し出す。

「比翼の鳥はふたつでひとつ、対をくしては飛べぬ鳥です。羽ばたいたものの、ややあって命運尽きたのでしょう。陽明門ようめいもんの片隅ではかなくなっておりました。決死の飛行で精も根も果てたのか。亡骸なきがら砂塵さじんと散り、残ったのはこの一翼のみ」

 しばらくの間、花野はまばたきさえせず、じっと羽を見つめ続けていた。

 次第、うつろに沈んでいたひとみに淡い光がともりはじめ、次には覚束おぼつかないながらも身を起こそうとする。

 夕星が寄り添い、あやうく揺らぐ肩を支える。それでも、花野の視線は羽に留められたまま。やや苦しげに息をしながらも、決して目を離そうとはしない。

「あの方の櫛が……」

 ふらりと、ほとんど倒れ込むように花野が道真の手に取り縋る。

 突然の出来事に夕星が小さな悲鳴を上げ、行夜も膝を浮かしかけた。

 だが、道真は落ち着いたもの。しっかりと花野の体を受け止め、手に羽をにぎらせる。

「花野殿。大切にしてきた想いを失うのは辛かろう。殊に、信じていた者に裏切られる辛さは身を斬られるに等しい」

 道真の言葉に、花野は顔を上げる。

「だが、痛みは心が生きている証。それがある限り、幸せを感じる時もまた訪れる。大丈夫。あなたは必ずたどり着ける。幸福を願うこの比翼の翼が共に在るのだから」

「……私、私はっ……」

 それ以上は言葉にならなかった。ぽろり、ぽろりと、大粒の涙をこぼしながら、花野は道真の胸に縋りつき、わあわあと童女のように声を上げ、泣きはじめた。

 道真は花野の肩をゆるゆるとたたく。どこか、むずかる子をあやす親のように。

 傍らで、行夜は肩の力を抜く。病みつくほどの恋情を失った痛みと、それほど恋うる相手に裏切られた悲しみが容易たやすく消えるとは思わない。

 だが、花野は己の意思で苦しみのない眠りから痛みを伴う現実に戻ってきた。泣きたいだけ泣いたあとには、きっとまた立ち上がる気力を取り戻せるだろう。

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