第一話 目にはさやかに見えねども-25

「世の奇妙には大なり小なり理由があるもんだ。姫はどうしても花野殿に子の誕生を報せたかった。自分がいまも変わらず、夫に愛されているあかしとしてな」

「……ちょっと、待ってください」

 行夜は混乱する頭の中を必死に整理する。花野は何故、前の屋敷を去ったのか。以前のあるじは何故、花野に夫の愛を知らしめてきたのか。出産を報せる文によって、花野が深く絶望したのだとすれば。

「では、花野殿の想い人というのは」

「かつての主人の夫。当て推量だが、多分外れてはいない。だったら、花野殿が屋敷にいられなくなり、大伯母おおおばを頼って三条の屋敷に移った説明もつく。あとで必ず迎えにいく、証として比翼の櫛を贈るからどうか待っていて欲しい……去り際に男がかけた睦言むつごとを花野殿は信じた。ついぞ届かなかった櫛があると思い込んでしまうほどにな」

 鳥かごのような屋敷の中、押し寄せてくる不安を必死に打ち消しながら、想い人を待ち続けた花野の心情は如何いかばかりか。道真の話を聞いていると、恋など知らない行夜の胸の内でさえ苦くなってくる。

「しかし、櫛がないと断定できたのは何故です? 夕星殿の話だけではとても確証を得るには足りない」

「そんなもの、男が想いを寄せる女人に櫛を贈る理由を考えれば簡単だろ?」

「……皆目見当がつきません。私は不調法者ですから」

 はああああと道真は大仰にため息を吐くと、無粋な子に講釈をはじめる。

「いいか、櫛の読みは苦死ともなり、贈り物にするには縁起が悪い。ただし、男が女に贈る時だけは別。苦死を共にしてくれという、求婚に等しい意味を持つ。比翼の櫛を目にしたことがあるか? あのとき、俺が夕星殿にそう尋ねたのを覚えているだろ」

「ええ……確か、夕星殿も他の誰も見たことがないと」

「妙とは思わんか。貴族や、それに准ずる女人の髪は長い。単にくだけでもひとりでは覚束おぼつかないほど、手入れにかかる手間は大層なものだ」

「それは、そうでしょうが」

「花野殿もまた、髪を整える際には誰かの手を借りねばならない。にもかかわらず、夕星殿も他の誰も比翼の櫛くしを一度も見たことがないという」

「大切な物だけに、なくしたり、壊したりしないよう、しまい込んでいたとも考えられるじゃないですか」

「絶対ない。髪は女の命。想い人の櫛を差し置いて、わざわざ他で梳くはずがない。たとえ使うのを惜しんだとしても、身のそばにないのは不自然過ぎる。花野殿は日々不安と寂しさを募らせていたんだぞ。約束の証である櫛にすがらないはずがない」

「………………なるほど」

 納得がいったような、いまいちいっていないような。微妙な顔でうなずく行夜に、道真はとほほと嘆きをこぼす。

「情操教育もほどこしたつもりだったが……」

「なに? なんです?」

「ただの独り言だ。気にするな。とにかく、誰の目にも触れないなどという事態は起こり得ない。比翼の櫛が実在していればな。それにしても」

 道真はひょいと指を伸ばし、頭巾ずきんからこぼれ出ている行夜の髪を梳き上げる。

「ひどい有り様だな。どれ、身繕いをしてやろう」

「あとでやりますから! 放っておいてください!」

 息をするように子供扱い。まったく油断も隙もない。行夜はぴしゃりと拒絶すると、なおも髪をいじくろうとする道真の手をつかみ、ひざの上に戻させる。

「私には理解しづらい話ではありますが……最初から櫛がなかったと考えれば、辻褄つじつまが合います。ですが、夕星殿や他の方々はその可能性を考えなかったのでしょうか?」

「それほど花野殿の取り乱し方が尋常じゃなかったんだろう。おとなしく、噓で騒ぐような性格ではないという先入観も大きかったに違いない。一度思い込んでしまうと、そこから抜け出すのは難しいもんだ」

「でしたら、どうして櫛を見つけてくるなどと約束したのです? 元々なかったという根拠を添えて説明すれば、夕星殿たちは納得されたはずです」

「行夜、考えてみろ。そもそも比翼の櫛がなかったと暴いたところで、三条の屋敷の者たちは誰も幸せにならない。花野殿は不名誉を被り、筑紫殿は虚言で屋敷を騒がした罪で大姪を罰さなくてはならなくなるし、夕星殿とて無用に事を荒立てたととがめられかねない。であれば、あったことにして解決を図った方が余程良い。そうだろ?」

「ええ……まあ」

「物事の判断は正誤よりも、より多く幸せにできるかどうかで行うべきだ。ほれ」

 道真は行夜に新たな強飯こわいいを放る。

 いきなりのことに慌てながらも、行夜は強飯を受け取った。

「講義が終わったら、屋敷に行くぞ。しっかり食っておけ、忙しくなるんだから」

 道真は腕を組み、不敵に笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る