第一話 目にはさやかに見えねども-23

「いいか、くだらない意地を張るな。おまえは子供で未熟。写本ひとつ取っても他の連中にかなわない。芳男なぞ、おまえよりはるかに手蹟が優れているだけでなく、速さも正確さも五段は上だぞ。この差の理由がわかるか?」

 事実ではあるものの、こうも遠慮なく言われればムッとくる。やや語気荒く、行夜は言い返した。

「芳男殿は私より六つ年嵩としかさで、なおかつ二年長く陰陽寮に籍を置いております。それだけ違えば、習熟具合に差があるのも当然かと」

「年月だけの問題じゃない。芳男は貧しい家の出だ。食うに必死で、書物を買う余裕なんて到底望めない。だから、あいつはずっと書の内容を聞き覚え、写すことで学んできた。つづった文字の数を比べれば、単純な年数の十倍は隔たりがあるだろうな」

 行夜の脳裏に、あのときの芳男のくらい目がよみがえる。

 素朴ではあるが、確かに行夜は豊かな暮らしを送ってきた。食べ物、着物、寝起きの屋にも不自由したことはない。学びに関しても、書や道具は元より、史上屈指の学識を持つ義父の教授つきという最上の環境を与えられてきた。

 恵まれていることに感謝しなかった日はないが、どこかで当たり前になっていたのもまた事実だ。陰陽寮に入ってから、そんな己の不遜ふそんを何度も思い知ったが、いまほど胸に突き刺さった時はない。さっき口にした言葉が恥ずかしくて堪らなくなってくる。

「……芳男殿が努力を重ねて得た立場を、私が義父上の助けでやすく手に入れた不公平は承知しております。でも、だからこそ――」

 少しでも早く、認められる存在になりたかった。分不相応な立場に追いつきたかった。

 できないなんて許されない。そう思い定めて、必死にやってきた。じわじわと弱っていく語勢に併せて、視線も下がっていく。

 塩をふりかけた青菜のようになっていく行夜を前に、道真はふうと息をつく。

「なあ、行夜。誰かを頼るのは悪いことか? 己の知らず足らずを認め、教えや助力を請うのは恥ずかしいことか?」

 行夜は怖々と顔を上げ、道真を見る。

 こちらをうかがう道真の双眸そうぼうはひやりと澄んでいたが、奥底にはいつもの柔らかい温かみがともっている。そのことに、行夜は我ながら情けないほどに安堵あんどした。

「確かに、芳男は人一倍苦労を重ねてきた。でも、だからといって、恵まれているという理由で相手を憎むとすればそれは間違っている。それに、行夜が芳男の境遇を知らなかったように、芳男だって行夜の境遇を知らない。どんな苦渋を重ねてきたか。ついツンケンして相手を遠ざけてしまうのは何故か。それを知れば、芳男も己こそが最たる苦労人という思い上がりを恥じるだろう」

 道真は手を伸ばすと、狩衣かりぎぬの上から行夜の右腕に触れる。

 ただ触れる。それだけの行為。

 だが、生まれた時からずっと、自分を導いてくれた道真の手があるだけで、行夜は潮のように焦りが引いていくのを感じた。

「おまえは生まれながらにかせを負わされている。おまえの魂に根づく怨讐おんしゆうはどうやっても消すことができない。一生涯つきまとう呪いだ」

「今更です。そんなもの、私はとうに受け容いれております」

 決して強がりではなく、心からの想いで行夜は答える。

 己の身の上とはすでに折り合いをつけているし、なにより、

「……怨嗟えんさを負って生まれたおかげで、私は義父ちち上の子になれました。だから、いいんです」

 大いに照れて、目を逸そらしながら、行夜は蚊の鳴くような小声でつぶやく。

 もちろん、この言葉に感動しない道真ではない。

「行夜! 本当におまえはいつまでも可愛いな!」

「ぎゃっ。ちょ、義父上! やめてください!」

 行夜は叫び、おおいかぶさってきた道真を押し戻す。

「なんだなんだ。久しぶりに頭をなでてやろうと思ったのに」

「要りません! そんな真似をしたら、即刻さっきの言葉を取り消します!」

 可愛いと思った矢先にこれだと、ぶうぶうと文句をこぼしながらも、道真は改めて行夜に向き直る。

「ま、確かにおまえはもう可愛いばかりの幼子じゃないな。真正面から努力して、陰陽寮の学生にまでなった。大したものだ、よくやった」

「お褒めの言葉はうれしいですが、いつもながら親馬鹿が過ぎます。義父上が安倍様に口添えを頼んだこと、私が知らぬとでもお思いですか?」

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