第一話 目にはさやかに見えねども-16

 人を装う道真に手を引かれながら、行夜はおっかなびっくり新しい世界を眺めた。

 はじめのうちは、静かな神域とはまるで異なる、喧騒けんそうと生命の息づきにあふれる人の世が恐ろしかった。けれど、徐々に慣れていけば、好奇心の塊である幼子にとって刺激ほど楽しいものはなく、みるみるうちに行夜は人の世に引き込まれていった。

 次はどんな〈新しい〉が待ち受けているのか。そんな風に期待ばかりを感じるようになっていたある日、道真は遊ぶ童たちに声をかけ、行夜も加えてくれと頼んだ。

 これまで遠くから眺めることはあっても、外の者たちと関わるどころか、じかに言葉を交わしたことさえない。そのため、行夜は大いに混乱したが、童たちは素直にうなずき、仲間に入れてくれた。

 あっちこっちと引っ張り回され、はじめは目が回る思いだったが、次第に慣れて楽しめるようになった。はしゃぐ行夜の姿に、少し離れた場所で見守っていた道真も大層うれしそうに笑っていた。そのまま日が暮れて、今日は本当に楽しかった――で済めば良かった。

 子たちのひとりから、「あれはおまえの父ちゃんか?」と聞かれたことが発端だった。

 行夜はどう答えたものかと迷ったが、とりあえずうなずいた。すると、その子は目を丸くして、あんな風にぶらぶらして、働いていないのかと問うてきた。

 行夜は返答に窮した。道真の仕事をどう話せばいいのか。ぐずぐずと戸惑う様子に子供たちのからかいの虫がうずいたらしい。次々にあれやこれやと騒ぎはじめた。

 なんだ、のらくら者か。じゃあ、こいつはのらくら者のせがれだ。あたし、知ってる。ごくつぶしって言うんだよ。

 所詮しよせんは子供の悪ふざけだと、いまならば思える。だが、当時の行夜にとって、生まれてはじめて無遠慮に投げつけられたからかいは暴力に等しかった。

 自分が馬鹿にされるのもつらかったが、それ以上に道真が嘲笑ちようしようされることが耐えられなかった。義父はいつだって、この西海の地に暮らす者たちの安寧のため、力を尽くしているというのに。

 やめろ、黙れ、取り消せ……次第に頭の中が白くなっていき、中心にあおい火がともる。

 自覚などなかった。右腕が熱い、そう感じた瞬間。

 道真の声が耳を突き、うしろから抱え込まれ――……そのあとのことは、何年経とうが決して後悔が消えることのない、忌まわしき思い出だ。

「……私が力を使ったら」

 行夜は恐々と木片をにぎり、屋敷を囲むように広がる野原に目をやる。

 日に日に秋が深まっていく。とちの根元にはどんぐりの実が転がりはじめた。ほどなくかえで銀杏いちようの葉も紅や黄色に染まるだろう。

 道真の神域には人の世の多くが写し取られている。鳥獣が住む山野、魚が泳ぐ川、虫がさざめく草原。一帯にはちゃんと四季があり、寒暖の移ろいに従って折々の花や野草が順繰りに咲き乱れる。

 梅に桜、山茶花さざんか、椿にひいらぎといった堂々とした樹木や藤に菖蒲あやめはす牡丹ぼたん桔梗ききよう、菊に水仙などの華麗な花々。果てはすみれやナズナ、烏瓜からすうりに露草、撫子なでしこに風船かずら、ふきのとうにハコベと野草に至るまで、草木花の息づきは外とほぼ変わらない。

 神域の環境は主神の気分次第でいくらでも変えられる。過ごしやすい時節にとどめることだって容易たやすい。それなのに、道真はあえて人の世と同じ、だる暑さや凍える寒さを創り出すことにこだわっている。

 元が人間だけに、そうでなければ落ち着かないというのもあるだろう。風雅を好む性格も一因に違いない。だが、一番は自分のためであることを行夜は承知している。

 半人半鬼、半端者の養い子が人間たちと交わって生きていけるように、道真は心を砕いてくれている。咲いては枯れ、また芽吹く木々や草花は道真の思い遣やりの表れなのだ。

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