第一話 目にはさやかに見えねども-14

 道真は満足気に笑うと、夕星に向き直る。

「この通り、吉昌殿が認める行夜も同意しております。どうかご安心くだされ」

 道真の力強い言葉に安堵あんどしたのか、夕星は両手を胸にあて、ほうと息をつく。

「ありがとうございます。物のの憂いがないと聞き、心が軽くなりました」

「それは何より。では、事の発端である、失われた櫛くしを見つけ出すとしましょう」

「お願い致します。花野殿が臥せられてから、女房衆で屋敷中を探しましたが……」

「どこにもなかった、ということですな。さすれば夕星殿。これより三つの質問にお答えいただきたい」

「はい。お役に立てるのであれば、なんなりとお答え致します」

「ありがとうございます。では、ひとつ目。花野殿にとって、失くなった櫛がどういうものであったか。ご存じか?」

「私も詳しくは……。ただ、譫言うわごとのように何度も繰り返されておりました。あの方が贈ってくださった、大切な比翼の櫛と」

「比翼……白居易はくきよい長恨歌ちようごんかに出てくる、雌と雄、各々がひとつの目と翼しか持たず、常に一心一体となって飛ぶという〈比翼の鳥〉のことでしょうな。なるほど。それほどむつまじい方から贈られた櫛なら、悲嘆に暮れるのも無理はない。ちなみに、これはふたつ目の尋ねになるが、女房衆の中に、その比翼の櫛を目にした方はおられるか?」

「私は一度も。筑紫様をはじめ、他の者も見たことがないと。そもそも、花野殿に想いを懸け合う相手がいらっしゃることさえ知りませんでした。ただ……あくまで推測なのですが、櫛の贈り主との縁は昔のものではないかと」

「つまり、相手とはすでに別れている?」

「女ばかりが住まう屋敷の中で、誰にも知られず忍びうなど不可能です。特に花野殿は奥にこもりがちで、夜はひさしに出ることさえほとんどありませんでしたから」

「出入りが頻繁になれば目立ったはず、ですか」

「文にしても、花野殿には特定の方と繁く交わしていた様子はありませんでした。最近では以前にお仕えしていたという、佐井さい通りの御屋敷の姫様より届いたきりで」

「ああ、そのこと。三つ目にお尋ねしようと思っておりました。花野殿は臥せられる直前、どなたかより文を受け取ったのではないか。それを確かめたかったのですよ」

 満足気にうなずく道真を前に、行夜も夕星も首を傾げるしかない。

「あの、道真様。ひとまず三つの質問を終えましたが……もし、他にお知りになりたいことがあれば、どうぞ遠慮なく」

「いや、もう十分。夕星殿のおかげで、比翼の櫛の在りが知れました」

 道真の返答に、行夜と夕星はそろって目を丸くする。

「明日のいま時分、こちらに比翼の櫛をお持ちする。三条の上様にも筑紫殿にも、そのようにお伝えくだされ」

「道真殿っ」

 一体何を言い出すのか。行夜は焦りと怒りに駆られながら、道真のそでを思い切り引く。

「なんだ? どうした? そうグイグイするな、破れるだろ」

「なんだ、じゃありません。ちょっとこっちに。夕星殿、少々失礼します」

 行夜は力任せに道真を立たせると、御簾みすをくぐり、簀子縁すのこえんまで引っ張り出した。

「……どうするんですか。あんな安請け合いをして」

 行夜は声を潜め、道真に問いただす。

「どうするもなにも、櫛くしを持って来るだけだ。ああ、せっかくなら夜に参りますと言えば良かったか。月影に身を隠し、花香の舎に忍んでゆくのもさぞ一興……」

「冗談はやめてください。大体、明日までなんて――いえ。そもそも、物のがいないなどと。どうして噓を?」

「噓じゃない、方便だ。あの蜘蛛くも程度なら少々放っておいても障りはない。下手に怖がらせるより、いないと言って安心させてやる方がいいに決まっている」

「ですが」

「おまけに余計な風聞も立たずに済む。良いこと尽くめだ」

 ぐうと、行夜は黙り込む。

 害の有無はともかく、いるものをいないと偽ることには抵抗を覚える。

 だが、道真の言い分も理解できる。納得がいかない部分があろうとも、道真の配慮を台無しにしてまで己の感情を優先したいとは思わない。

「……だったら、いますぐ祓わない理由はなんです? 櫛くしなどなくても、蜘蛛を除けば花野殿は正気に戻るはず」

「いま目覚めさせても、どうせまたすぐに寝ついちまう。今度こそ気鬱きうつの病でな」

「……どういう意味です?」

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