第一話 目にはさやかに見えねども-13

「三日前の夜更けのことです。普段は物静かな花野が、櫛くしがない、櫛がないと泣き叫びながら、あたりの者たちにすがりはじめたのです」

 淡々と、筑紫は事の次第を語りはじめる。

「花野は半刻ほど嘆いた末にこんとうしてしまいました。それ以降、ずっと眠ったままです。折々に目を覚ましますが、おおよそゆめうつつの状態でぼんやりしたまま。重湯なども多少は口にするものの、合間合間に櫛を求めてはまたしてしまうといった有り様です」

「薬師の診立ても受けましたが原因はわからず……ただ、身体にこれといった障りは見当たらないと申しておりました。ですから、ひょっとしたら物の怪の仕業やもと――」

「口を慎め、夕星! 物の怪など、笑止千万。花野は櫛がなくなった失意から、気鬱きうつを患っているだけです」

 筑紫の𠮟責しつせきに、夕星は小さく身をすくめ、面を伏せた。

「しかし……」

 弱いものだが、花野は物の怪にかれている。行夜が口に出そうとした途端、筑紫が鋭くにらみつけてきた。

「この屋敷に物の怪なぞおりませぬ。断じて」

 筑紫の強い威圧に、行夜は黙らざるを得なかった。

「櫛が戻れば、花野は眠りから覚めるでしょう。三条の上様の願いは花野の本復です。そのためにも、一刻も早くせた櫛を見つけ出されよ」

 筑紫は一方的に言い渡すと、用は済んだとばかりに立ち上がり、うちぎすそを翻す。

 遠ざかっていくきぬれの音を聴きながら、夕星は深々と頭を下げた。

「……申し訳ありません。筑紫様は此度のことが噂となれば、三条の上様にまで累が及ぶのではと、それは深く案じられておいでなのです」

「なになに、夕星殿が気に召される必要はない。筑紫殿の御立場からすれば、あるじの名聞を一番に考えられるのは当然のこと」

 しばらくの間、夕星は面を伏せていたが、やがて思い切ったように顔を上げる。

「道真様。私には鬼を見る力なぞありません。ですが、朧気おぼろげながらも感じるのです。花野殿の身辺に良からぬものがうごめいているのを」

 漠然としたものとはいえ、あれほど微かな物の怪の気配を察知できるのは並ではない。行夜は驚き、切々と訴える夕星を眺めた。

「筑紫様のお気持ちも重々承知しております。花野殿が身内であるからこそ、いっそう特別扱いにはできないと思い定めていらっしゃるのも。ですが、花野殿のお命に関わるかもしれない事態を見過ごす訳には参りません」

「……なるほど。夕星殿、今日までつらい思いをされましたな。主人をおもんぱかる心と、同輩の花野殿を案じる心。ふたつに挟まれる苦渋、想像に余りある」

 道真ははやる夕星を落ち着かせるようにそっと語りかけた。

「いえ、私の苦しみなど……」

 夕星は首を横にふるが、目元には濃いかげが落ちている。

 筑紫がかたくなに物の怪を否定するのは三条の上の名誉を守りたいからだろう。

 噂とは恐ろしい。女房があやかしに憑かれたと漏れれば、瞬く間に屋敷全体がたたられているなどと尾ヒレがつきかねない。筑紫が神経を尖らすのは当然だ。

 だからこそ、夕星は吉昌に助けを求めた。世事にけた吉昌なら秘密を守り、内々に協力してくれる。おそらくはそんな風に筑紫を説いたのだろう。それには相当の苦労と不安があったに違いない。次第によっては差し出がましいと責められ、屋敷を追い出されかねない。

「確かに、花野殿の様子は尋常ではない。さては物の怪の仕業かもしれぬと、おびえる気持ちもよくわかります。ですが、此度の件に関して、そのような心配は一切無用です」

「はっ? 道真殿、何を言っ――」

「なあ、行夜。この屋敷に物の怪などいない。だよな?」

 道真は素早く身を返し、声を上げかけた行夜の肩に手を置く。

 笑いながらも、道真の目は有無を言わせぬ強さで伝えてくる。黙って合わせろと。

 何故、事実を隠そうとするのか。行夜には理解できない。物の怪といっても弱い。行夜でも簡単にはらえる。ひょいときよめれば、すべてが解決すると言うのに。

 舌先まで出かかった行夜の疑問と反論はしかし、道真の強い視線にねじ伏せられてしまう。顔中に不満を貼りつけながらも、行夜は首を縦にふった。

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