第一話 目にはさやかに見えねども-12

「それにつけても、吉昌様は何におびえていらっしゃるのやら。大方相談にかこつけ、過去の恨みをぶつけられては堪らないとでも思っているのでしょうけど……何故に昔のよしみがいつまでも己を想い続けていると信じ込めるのか。不思議でなりませんわ」

 夕星の声は朗らかで、未練や虚勢といった湿り気は欠片かけらもない。

 何とも言えない気持ちで、行夜は黙りこくる。

 経験がないため共感はまるでわかないが、それでも吉昌に同情めいたあわれみを抱いてしまう。道真もまた、居た堪れないといった様子で半笑いを浮かべている。もしかしたら、肚の奥にふたつみっつ、痛む古傷があるのかもしれない。

「吉昌様の自惚うぬぼれはともかく、吉昌様の信頼を勝ち得るお二方の力をお借りできるとなれば、これほど心強いことはございません」

 夕星は立ち上がると、軽やかに袿の裾を翻す。

「詳しい話は奥で。ご案内いたします」

 しゃなりと涼やかなうしろ姿すがたを見つめながら、道真が行夜の耳元でこそりとささやく。

「な? 女人は一筋縄ではいかんだろう?」

「……そのようで」

 行夜と道真はそろって立ち上がり、夕星のあとに続いた。


 夕星に誘われるまま簀子縁を渡り、行夜たちは殿舎の奥へ踏み入った。

 元より気が張っていたが、一歩、二歩と進むうちに、行夜の心身はさらなる緊張に尖とがりはじめていく。

 奥の暗がりから、異様な気配が漂ってくる。

 決して強くはない。けれど、足を運ぶごとにかすかながらもはっきりとした物のの気配が肌を通して伝わってくる。

 行夜がそっとうかがうと、同意するように道真が小さくうなずいた。

 間違いない。この屋敷には物の怪がいる。行夜が確信を抱く中、夕星は角の|御

みすの前で足を止めると、檜扇ひおうぎで御簾を軽くからげ、奥に向かっておとないを告げた。

「さ、こちらに」

 促され、道真と行夜は身をかがめて、御簾をくぐる。

 じんわりと、物の怪の気配が増したが、やはり弱い。

 だが、油断は禁物。きゅっと、行夜はあごを引き締めた。

 踏み入った母屋おもやは陽射しが遮られているため、昼日中でもほんのりと薄暗かった。

 火のない高灯台、生絹すずし帷子かたびらの三尺几帳きちようなどが並ぶ部屋の中には、老女がひとり、背筋も正しく座っている。

 そして、もうひとり。奥に敷かれた臥所ふしどに横たわり、眠る女の姿があった。

「よくおいでくださいました」

 老女が一言、愛想のない声音で告げてくる。

 じっと注がれてくる視線もまた冷たい。得体の知れない来訪者に対する猜疑心さいぎしんがありありと伝わってきた。

筑紫つくし様でございます。三条の上様の乳母様であられます」

 挨拶あいさつ以上は述べようとしない老女にかわり、夕星が説明を加える。

「筑紫様。こちらが陰陽寮よりお越しの道真様と行夜様です」

 道真と行夜は入ってすぐの床に並んで座り、頭を下げる。

 しばらく、筑紫は無言で男たちを眺めていたが、やがて苦々しい息を吐く。

「率直に申し上げます。このたびやむなく、あなた方を殿舎に招き入れることを、私は快くは思っておりません。なれど、三条の上様のご意志であるが故、心ならずも許しを与えました」

「筑紫様、それは――」

「おだまり。そなたは控えておれ」

 にべもなく夕星を制し、筑紫は横たわる女人に目をやる。

 倣って、行夜もそちらに目を向ける。

 二十歳をいくつか過ごしたくらいだろうか。若干やつれてはいるものの、整った容姿をしていた。

「この者の名は花野はなの 。三条の上様に仕える女房のひとりで、私の大姪おおめいになります」

 筑紫の声を聞きながら、行夜はひそかにまゆを寄せる。

 それ、、について、筑紫も夕星も口にしない。どちらも、それ、、が見えていないからだ。

 別に、不思議なことではない。

 人の世に跋扈ばつこする物の怪の多くは常人の目には映らない。微弱な妖気ようきは周囲の五気に溶け込んでしまうため、見鬼の力がなければとらえられない。

 しかし、力を持つ行夜にはそれ、、――ちょうど花野の胸の上あたりに大人のこぶしひとつ分ほどの黒い蜘蛛くもがじっとうずくまっているのが見えた。

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