第一話 目にはさやかに見えねども-8

「どうだ? これでもまだ帰れと言うか?」

「……もういいです」

 悪びれる様子もない道真に、行夜は白旗を上げる。高位の神々さえだまくらかそうとする義父に勝とうとしたのが間違いだった。

 そもそも、道真がここまでして居座ろうとするのは、いつまで経っても人の世に馴染なじめない半人半鬼の子がひたすら心配だからだ。要は不甲斐ふがいない己が悪い。

「私の筆だと使い勝手が悪いとか、もっと良い香りの墨じゃなきゃ嫌だとか。文句は一切聞きませんよ」

「それじゃあ!」

「手伝ってください。ただし、半分だけ。ここは絶対に譲りませんから」

「わかった! 迅速かつ寸分の狂いもなく仕上げてやる!」

 道真はうれしくて仕方がないといった様子で文台に飛びついてくる。

「あまり張り切らないでください。次からは全部、この上手うまい部分のように書けと言われても困りますから」

「安心しろ。そっくりそのまま、行夜のいまいちな手蹟を真似てやる」

「……すみませんね。いまいちで」

「心配するな。これからもじっくりたっぷり、手に手を取って教えてやろう」

「結構です。手習いも自分でやれます」

「だから、突っ張るなって。まったく、昔は俺にべったりで、少しでも離れれば泣いていたくせに。嗚呼ああ、本当に可愛かったなあ。鬼王丸は義父上が大好きです、が口癖で」

「何年前の話ですかっ。手伝うと言ったからには、口よりも手を動かしてください」

「はいはい。了解了解」

 道真は書と道具を抱え、隣の文台に歩いていく。

 本当にまったくああもう……と、胸中で盛大に愚痴りながら、行夜は筆を取り直す。

 その途端に、また墨のしずくがぼたりと落ちた。


 翌日。いつもの通り、行夜は陰陽寮に出向いた。

 朝からひるにかけて、陰陽生たちは博士、もしくは上級の学生である得業生とくごうしようから天文や暦、陰陽の講義を受ける。

 昨日の悶着もんちやくもあって、行夜を取り巻く空気はいつも以上に穏便ではなかったが、今更取り繕おうとは思わない。どれだけ周囲を敵に回そうとも、行夜にすれば一人前の陰陽師になる方が重要だ。

 講義が終われば学生たちは方々に散っていく。写本の続きにかかろうと、行夜もまた部屋を出る。しかし、回廊をいくらも行かないうちに、涼やかな声に呼び止められた。

「ああ、行夜。少しいいかい?」

 行夜は足を止め、そちらに視線を移す。

 回廊の外、白砂利の上に立っていたのは天文得業生の安倍吉昌よしまさ。陰陽、天文の至高と評される晴明の子息のひとりである。

 貴公子然とした美貌びぼうは内裏の女たちの噂にのぼるほど。ほっそりとした面立ちはえた月のごとく秀麗だが、身丈はすらりと高く凜々りりしい。

 行夜は眉根まゆねを寄せながら、回廊を外れ、吉昌に歩み寄る。

「なんでしょう?」

「道真殿は? 今日はお越しではないのか?」

「……吉昌様、あなたもですか」

 うんざりなんですが、という思いを隠さずに行夜は顔をしかめる。

「ひどい面相だ。せっかくの花顔が台無しだぞ」

ごとなかむつまじい方々にどうぞ。あのひとなら、直に戻ってくると思いますが」

 行夜は苦々しく答える。

 駄目だと言っても毎日陰陽寮までついてくるくせに、道真はすぐどこかに行ってしまう。講義を受ける必要がないのはわかるが、それなら家でおとなしくしていて欲しい。

「そうか。なら、共に待たせてもらってもよいかな? 折り入って相談があってね」

「待つなら、おひとりでお願いします。私は別に――」

「行夜ー。講義、終わったのかー?」

 頭の上から、聞き慣れた声が降ってくる。

 驚いた行夜が顔を上げれば、回廊の屋根の上に道真が立っていた。

「ちっ……道真殿! またそんなところに登ってっ」

「はは、相変わらず神出鬼没でいらっしゃる。しかし、ちょうど良かった」

 明るく笑う吉昌の横で、行夜はげんなりと肩を落とす。

 行夜としては、義父のふるまいをいさめるか、せめて共におかしいと言及して欲しい。

 だが生憎あいにく、自分を除く他の面々は道真が何をしようと普通に受け入れてしまう。人徳だか神徳だか知らないが、まったくもって解せない。

「吉昌、行夜と何の話をしていた? まさか、悪い誘いじゃないだろうな」

 道真は猫を思わせる身軽さで飛び降りてくると、行夜のうしろに回り込み、そこから吉昌をにらむ。

 低くはないが、高くもない。そんな道真と比べて、吉昌の身の丈はゆうに一段高い。

 二年前、行夜に追い抜かされてからというもの、道真は身長に対し劣等感を抱いている。そのため吉昌のそばには立ちたがらない。

「人聞きの悪い。あなたの居所を尋ねていただけですよ」

「俺に用か? さては、別れ話でもこじらせたか」

「そんな下手は打ちません。まあ、立ち話もなんです。どうぞ私の部屋へ。生家より届いた干楊梅ほしやまもも御馳走ごちそうしましょう。ああ、行夜も来るといい」

「遠慮します。私は写本を――」

 吉昌はにこやかにほほえんだまま、しかし有無を言わせぬ強さで行夜の肩をつかむ。

「そう言うな。私の生家の干楊梅は美味うまいぞ?」

 子が来なければ親も来ない。それを承知している吉昌は上役の権限全開で、顔を引きつらせた行夜を引き止めてくる。

「さ、参りましょう」

 麗しいほほえみに似合わぬ強引さで、吉昌はふたりを自室へ誘った。

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