第一話 目にはさやかに見えねども-7

 道真のおかげで、行夜は難なく陰陽寮の学生になれた。だが、入寮できても、将来が保証されている訳ではない。陰陽道や暦道で身を立てるには限られた席を得る必要がある。身分や後ろ盾がない者が実力だけでその席を勝ち取るのは容易ではない。

「俺にすれば、おまえが自ら買いまくっている反感こそが最たる無駄だけどな」

「私はっ……!」

「間違ってはいない、か? 確かに理屈で言えばそうだろう。けどな、正しくもない。はっきり言えば、愚かだ」

 道真に真正面からたしなめられ、行夜は黙り込む。

「たとえ争う間柄でも、いたずらに相手を傷つけるな。負わせた痛みは、必ず自分にはね返ってくる。……おまえは身をもつて、その痛みを知っているだろ?」

 行夜は青ざめ、うつむく。

 右の二の腕がうずき、合わせて心の奥に押し込めた忌まわしい思い出――皮膚と肉が焼け焦げる嫌な臭いが脳裏をよぎる。怒りに任せた衝動が何を傷つけたか。一瞬たりとも忘れたことはない。

「……ご心配はわかります。ですが、私も多少は成長しました。もう二度と、ご迷惑をかけたりはしません」

「迷惑とか、そんなことを言っているんじゃ――」

「この話はやめましょう。堂々巡りになるだけです」

 先程よりも強い口調で話を断ち切り、行夜は再び筆を取る。

 まだ何か言いたげながらも、道真はあきらめた様子で口を閉ざした。

「とにかく、道真殿が何と言おうと、私はこれを終えるまでは帰りませんから。どうぞ先にお戻りください」

「なら、せめて手伝い……」

「無用です! さっさと帰ってください!」

 とりつく島もない。ならば奥の手とばかりに、道真は床に転がると、バタバタと手足をふって暴れ出す。

「いやだいやだぁー。ひとりきりの家になんか帰りたくないー。暗いし、怖いー」

 なりふり構わないどころの騒ぎではない。行夜はぎょっと目をく。

「またそんなっ……やめてください! 誰かに見られでもしたらっ」

「別にいいもーん。いっそ大内裏中に聞こえるようにわめいてやる。行夜がいいって言うまでやめないからな。うわーん! みんな聞いてくれー! 息子がいじめるー!」

「駄々をこねないでください! おいくつだと思っているんですか!」

 道真は叫ぶのをやめ、小首を傾げる。

「んー、ざっと一三三歳?」

「正確に答えなくていいです! わかりましたっ……そんなにひとりが嫌なら、飛虎ひこをお供につけます。飛虎、出てこい」

 行夜は自身の影に向かって呼びかける。

 すると、影がわさりと揺らぎ、かと思うや、大人の腕に収まるくらいの丸い一本角の獣がぴょこんと現れ出てくる。

 全身を覆うモコモコの毛は雪のように真っ白。丸いしりから伸びる尻尾しつぽの先だけが燃えるように赤い。鳥居の前に鎮座する狛犬こまいぬに似たこの生きものは霊獣、行夜の式神しきがみだ。

「はーい! 飛虎、参りましたぁ」

 細く長い尻尾をふりながら、飛虎はぽやぽやと行夜の足元にはべる。

「飛虎。聞いていただろ。道真殿の供を――」

「おい、飛虎。何も聞かなかったことにして、行夜の影に戻れ。そうしたら、あとで俺の神力を食わせてやる」

 ぐるんと体を反転させ、腹ばいになった道真が口を挟む。

「はっ?」

「えっ! 本当ですか!」

 仰天する行夜を他所よそに、現金というか素直というか、飛虎はあるじの命そっちのけで胡桃くるみのように大きな目をぱあっと輝かせる。

 霊獣にとって神力は最高の甘露である。飛びつきたくなるのは当然の反応だ。

 飛虎は数年前、空腹で行き倒れていたところを行夜に拾われ、恩に報いたいと仕えるようになった。感謝から芽生えた飛虎の忠誠は本物で一片の曇りもないが、たまに、いや結構な割合で食い気に負けてしまうことがある。

「式神を買収とか、一体なにを考えているんですっ?」

「神力で式神をなびかせる程度は買収の内に入りませーん。大内裏で習いましたー」

「物騒な冗談はやめてください! いつもいつも、そうやって屁理屈へりくつばかり……飛虎! おまえは私の式神だろう? 食欲などに揺らがず、使命をまっとうしろ!」

「えっと、えっと……」

 迫りくる主人とその義父ちち狭間はざまで、飛虎はおろおろと首をふる。

 らちが明かない。そう踏んだのか、道真は目を細めると妙に優しげな声で呼びかける。

「なあ、飛虎。少々抜けているようでも、おまえは賢い。だから……わかるよなあ?」

 道真から含みたっぷりな笑みを向けられ、飛虎はたてがみから尻尾に至るまで、毛という毛をぞわわっと逆立せる。

 高い知性を備え、人語を操る霊獣とて本性は獣である。より強いものに従うという本能には逆らえない。

「はわわわっ……わかりましたっ! 行夜さま、ごめんなさーい!」

 文字通り、尻尾を巻いて飛虎は行夜の影に飛び込み、消える。

 とぷんと、自分の影に広がった波紋を行夜は啞然あぜんと見つめた。

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