第一話 目にはさやかに見えねども-5

 あれやこれやと、行夜が憤りに駆られていると、左手の戸口から、他の務めにあたっていた学生のひとりが顔をのぞかせた。

「おお、道真殿! お越しとはちょうどよい」

 新たな学生はすぐそばに座る行夜には目もくれず、道真に駆け寄る。

「聞いてくれ! 例の女房殿から、やっと色好い返事を頂戴ちようだいした!」

「へえ、とうとうやったか。良かったなあ、芳男よしお

「これもすべて、貴殿の指南のおかげ! 感謝申し上げる!」

 芳男と呼ばれた学生は感極まった様子で道真の手を取り、何度も頭を下げる。

 他の学生たちも筆を放り出すと、どっと駆け寄ってきた。

「例のとは、まさか五条ごじようの屋敷ですか?」

「芳男に限って、そんなまさか。あり得ん」

「絶望のふちに花を咲かすとは。やはり、道真殿は手練てだれの極みだな」

「どうだ、うらやましかろう。私にあやかりたければ、道真殿に指導をお願いすればいい」

 なるほど、ぜひ私も、ちょうど気になる方が……と、一気に色めき立つ面々を、蚊帳かやの外の行夜は苦々しい気持ちでにらむ。

 いずれ静まるだろうと我慢していたが、一同はいよいよ過熱していく。

「しかし、芳男の歌がなあ。にわかには信じられん。いつぞやなど、どこぞの女人に物ののわめき声のようだとこき下ろされていたというのに」

「物の怪と言えば、聞きましたか? 江口にぬえが出たという話を」

「ああ、夜な夜な鳴き声がするとかいうやつか。くだらん、どうせ野良犬か何かだろ」

「ほほう、野良犬にも芳男のようにとおえ下手がいるとみえる」

「おいおい、遠吠えはそちらではないか。ねたみはそのへんにしてもらおう」

 芳男のまぜっ返しに、皆がそろってどっと笑う。

 業を煮やした行夜は立ち上がり、口を開いた。

「無駄話はおやめください。仕事の邪魔です」

 冷たく鋭い一言に、座がしんと静まり返る。

 しばしの沈黙のあと、ある者は煩わしそうに肩をすくめ、またある者は露骨なため息を吐きながら、行夜にじとりと視線を注ぐ。

 誰も口にしないが、視線から伝わってくる。嫌なやつ、目障り、新参者のくせに、傲慢ごうまんな若造――皆にすれば、真の部外者である道真より、行夜の方が余程よそ者で邪魔な存在といったところなのだろう。

「相変わらず、行夜は野暮天だなあ。といっても、確かにいまは写本が先か。ほれ、おまえらも戻れ。恋歌の手ほどきはあとで引き受けてやるから」

 道真が軽い口調で言えば、学生たちの強張こわばりも少し緩む。皆、素直にうなずくと、文台に戻っていく。行夜もまた、まとわりつくほのぐらいものをはらうように腰を下ろす。

 そんな中、手持無沙汰ぶさたに立つ芳男に道真は声をかけた。

「芳男。おまえはもう、終わったのか?」

「え? ああ、はい。此度こたびの分は昨日すでに」

「そうか。なら、行夜を手伝ってやってくれないか? 若輩で修行不足のせいか、刻限までに終わりそうにない。まあ……少しばかり他より量が多いようにも思えるが」

 笑いながら、それでもはっきりと含みを持たせた道真の一言に、芳男をはじめ、座した学生たちの顔がごわりと引きつる。

「え、ええ。そりゃ、道真殿の頼みとあらば、手伝わないでもないですけど……」

 芳男は居心地悪そうに視線を移ろわせながら、もごもごと口ごもる。他の面々は関わりを避けるように、ひたすら紙面に目を向け、筆を動かしている。

 黙っているつもりだったが、居た堪たまれない空気に行夜の我慢も底をつく。

「芳男殿、お気遣いは無用です。己の面倒くらい、己で見られますから」

 切って捨てるような行夜の物言いに、芳男たちの表情がいっそう硬くなり、そしてすぐさま冷えていく。

「……そりゃそうだな。恵まれた境遇にある行夜に、私のようなうだつの上がらぬ者の助けなど必要あるまい」

 さっきまでの笑みをかき消し、芳男はくらい目で行夜を見下ろす。

 思いも寄らない言葉と陰鬱いんうつ眼差まなざしに、行夜は気圧けおされたかのように身じろいだ。

「わ、私は、そのようなつもりで言ったのでは――」

「確かに、最初から行夜は特別扱いでしたね」

「なんといっても、安倍様が才賢と褒めそやす道真殿の肝いり。御威光のおかげですんなり入寮を許され、おまけに上の方々の覚えもめでたいときている」

「大したものよ。我らとは格が違う」

 さげすみもあらわな言葉と視線に囲まれ、行夜は身を固くする。己の言動が招いた事態とはいえ、突き刺さってくる嫌悪のとげはひどく痛かった。

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