第一話 目にはさやかに見えねども-3


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 朱雀すざくもんをくぐった先にある陰陽寮おんみようりよう

 そこは大内裏にある陰陽、天文、暦をつかさどる役所である。天体から吉凶を占ったり、太陽や月の運行から暦を作ったり、場合によっては怨霊おんりようたたりといったたぐいの解決に乗り出したりと、担う務めは多岐にわたる。

 天元てんげん元年(978年)、新緑がまばゆい時節の中、陰陽寮は今日も忙しい。


 陰陽寮の学生がくしようである檜垣ひがき行夜ゆきやは文台の前に座り、書物の写本を行っていた。

 歳は数えで十六、元服もすでに済ませている。とはいえ、見目にはまだ鬼王丸と幼名で呼ばれていた頃の面影が残っている。

 表情こそ無愛想なしかめ面だが、雪を思わせる白肌、濃紺の双眸そうぼう、繊細な眉目と、その面差しは実によく整っている。

 しかしながら、当の行夜は己の麗しさなど知ったことではないといった様子で、渋い顔のまま黙々と筆を運んでいた。

 いまは行夜を加えた四人の学生たちが左右にふたりずつ、向き合う形で座り、写本を行っている。

 見習いである学生たちは天文、暦学、占筮せんぜいや地相の方技を志し、日々学んでいる。中でも写本は最新の技術に触れられる貴重な機会であるため、どの眼差しも真剣だ。

 しかし、行夜においては少し状況が違う。なにやら奇妙な青年が背中にへばりつき、右左にピョコピョコと揺れながら、ひっきりなしに話しかけていた。

「なあなあ、行夜。今日はいつ帰る? それ、どこまでやるんだ? あ、夕飯は何が食いたい? なあ、なあって」

 しつこい問いかけに行夜の白い額に青筋が立つ。筆を持つ手にも同様、イライラを形にしたような筋がいくつも浮き出ている。

 他の者たちが騒がしい青年を気にする様子はない。なにも聞こえてはおりませんといった顔で平然と写本を続けている。

「行夜ー。聞かれたことには、ちゃんと返事しなきゃ駄目だろ? 俺はおまえを、そんな礼儀知らずに育てた覚えはないぞ?」

 びきりと行夜の額の筋が大きくなったと同時に、ぼたりと紙面に墨が落ちる。ここまでの苦労もこれでご破算だ。

「いい加減にしてください! 写本中は話しかけないでください! そもそも、ここに来ないでください! それよりなにより、同じことを何度も言わせないでください!」

 堪忍袋の緒が切れたとばかり。行夜は筆を文台に置き、勢いよくふり返る。

 うしろの青年は行夜より十ばかり年嵩としかさだろうか。一応頭巾ずきんをつけ、つるばみ色の狩衣かりぎぬを身に着けているが、大内裏に務める役人には見えない。良く言えば空を渡る鳥のような、悪く言えば根のない風来坊のような、自由気ままな風情が漂っている。

 行夜ほど器量しではないが、無邪気な童子と泰然とした老爺ろうやという真逆の魅力を併せ持ち、不思議と人をきつけるこの青年こそ、汗と涙にまみれながら行夜の育児に励んだ天神――菅原道真だ。

「行夜」

「なんですかっ」

「三行目の十二文字目から十四文字目、間違っている」

「え……?」

 行夜は慌てて書付を確かめる。よくよく見れば道真の指摘の通り、転写の語順に誤りがあった。悔しさと徒労感に唇をわななかせる行夜の横で、道真が吞気のんきな声を上げる。

「あーあ、こりゃ書き直しだなあ。よし、手伝ってやろう」

「……結構です。自分の仕事は、自分でやります」

「遠慮するな。この調子だと、夜になっても終わらんぞ。それに、親が子の世話を焼くのは道楽みたいなもんだ」

「私は子供ではありません! あと、あなたは部外者! わかったら、早く――」

「あいすまぬ。道真殿、ここを教えていただきたいのだが」

 憤る行夜を遮るかのように、行夜の右斜め前に座っていた学生が手を挙げる。

「ああ、わかった」

 道真は立ち上がると、そちらに歩み寄っていく。

「道真殿。次は私の方に」

「あとでこちらにも」

 次から次、行夜を除く学生たちが呼び、道真がほいほいと気安く請け負う。いまやすっかりおなじみとなった風景に行夜はぎゅうと唇をむ。

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