序-3

「赤子は一日中くうくう寝てるモンだと思っていた……は、はは、馬鹿だな俺」

 道真の乾いた自嘲じちようが響き渡る。

 育ての親から漂う不穏な空気にあてられたのか、道真の腕の中の鬼王丸が体全体を震わせ、いっそう激しく泣きたてる。

 かと思うや、黒く細い影のような何かが、鬼王丸のふっくりと丸い右腕をすさまじい勢いで螺旋らせん状にい上がってくる。影は一瞬で手の甲にまで達し、シャッときばく蛇となって空にってかかる。すると、途端にボンッという破裂音が鳴り響き、道真のまわりにあおい鬼火が三つはじけ出た。

「うっ、わたあ!」

 道真は慌てて左手をふるう。すぐさま、がれた鬼火はジュッと鋭い音と共に消え去った。床とそでが焦げた匂いが漂う中、道真は薄くにじんだ額の汗をぬぐう。

「鬼王丸ー。火は危ないから駄目だぞー……って言っても、まだわかんないよなあ」

 道真はため息を落とすと、顔を真っ赤にし、ひっくひっくと全身でしゃくり上げる鬼王丸の額に手をあて、ゆっくりとなでた。

 繰り返すうちに、鬼王丸は落ち着きを取り戻していく。同じようにいきり立っていた黒蛇も牙を収め、飛び出してきた時とは逆巻きにするすると袖の中に消えた。

 鬼王丸の感情のたかぶりに合わせて、出現する黒蛇の刻印と鬼火。これこそが、道真が他の誰にも頼ることができない理由だ。

「よしよし、良い子だ。泣いたら腹が減ったろ? とりあえず、飯を食おうな。ほれ」

 道真は笑いかけながら、今度は左のひとさし指を小さな口元に差し出す。

 ふわりと、道真の指先に黄金色の光がともり、併せてほのかな白梅香が匂い立つ。

 光と香りに気づくや、鬼王丸はわちゃわちゃと小さな手を動かし道真の指をつかむ。

そして、まるで乳を飲むかのようにくわえ、吸いはじめた。

 育児疲れでとうとう気を病んでしまったのかと危ぶまれるような光景だが、これはれっきとした食事。与えるものが乳か神力かの違いしかない。

 元の身が男である以上、神とはいえ乳は出ない。父と名乗りながら乳が出ないとは。如何いかなる矛盾かと嘆き、憤り、果ては我が身の不甲斐ふがいなさを題に歌を詠み、漢詩にも綴つづってみたが、もちろん何の解決にもならず、また奇跡も起きなかった。

 頭と体を限界までよじったところで出ないものは出ない。当然ながらも残酷な結論にたどり着いた結果、平癒の神力を乳がわりに与えている。

 ちなみに、道真の神力は黄金色で白梅の香りがする。これは、神力にはその神の象徴や特徴が反映されるからだ。道真の場合、色は天神、即ち雷光をつかさどる神であること、また香りはかつての邸宅が紅梅殿こうばいでんと呼ばれるほど庭の梅の木々が見事で、中でも殊にでた一本が白梅であったことに由来する。

「……てっ」

 きゅうと、ひときわ強く指を吸われ、道真はまゆを寄せた。

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