序-2


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 陽があるうちは参詣さんけいの人々でにぎわう社殿の一帯も、夜が更ければ、たちまちどこもかしこも深い闇と静寂に沈む。

 そんなとろりと暗い社殿の奥の、そのまた奥に。

 常人の目には映らず、また踏み込めない。神、もしくはその眷属けんぞくといった存在のみが立ち入れる、神域と呼ばれる特別な空間がある。

 そこはいわば神の住まい。人の世になぞらえるなら我が家と呼べる場において、道真は眠りについていた、のだが……。

 びぃと甲高い赤子の泣き声が夜のしじまを切り裂く。

 ほぼ同時に、かたわらで眠っていた道真は飛び起きた。これで五度目。今夜は殊に夜泣きがひどい。

「……お、鬼王丸おにおうまる、どうした? 腹が減ったか? それとも襁褓むつきか?」

 道真は鬼王丸と呼んだ赤子を抱き上げ、よしよしとあやす。

 一見したところ、二十歳をいくつか超えたくらいに見えるこの若者こそ、大宰府の社に鎮座する天神、菅原道真である。

 特に秀でてはいないものの、それなりに整った目鼻立ちには知性と品の良さ、なにより相手の心を解きほぐす愛嬌あいきようがある。この人好きのする面相と褒め上手な気質のおかげで、生前の道真は大いにもてて、とんだ人たらしだとよくはやされた。しかし、そんな面影もどこへいったのやら。いまは声にも表情にも生気がなく、頰はこけ、落ちくぼんだ目の下のクマもひどい。簡素な小袖こそでとほつれたびんという身なりも相まって、さながら幽鬼ゆうきの有り様である。

 死んですぐ、大宰府を中心とする西海一帯の土地神に昇華して六十年ほどになるが、筋金入りの正装嫌いは人の頃のまま。仰々しいナリは肩が凝ると、普段は徹底的にくだけた恰好かつこうで過ごしている。頭の固い古参の神々に知られれば、まず説教は免れない。

 そんな風に、見た目は少々そぐわないものの、道真が神の一員に名を連ねているのは間違いない。だが、神でありながら、現在ギリギリまで追い込まれている。ひとりきりでの子育てという試練に。

「はは……古今東西、賢智及ばぬ域はなし、とかなんとか褒めそやされた俺もいまのいままで知りませんでした……昼夜構わず、赤子がこうもたびたび泣くなんて……」

 夜を重ねるごとに独り言は確実に増えていっている。道真自身は気づいていない。そもそも、頭の中身を口に出している自覚がない。

 泣き声に起きる、あやす、食事、襁褓の取り替え、あやす、やっと寝る。よし、いまのうちにアレとコレを……と思ったらまた泣いて起きる。あやす、なんとか寝る。意気込んでアレとコレをはじめたら起きる。あ、今度は泣いていない。いいぞとほくそ笑んだ途端に大泣き。襁褓を替え、食事。沐浴もくよく。鬼王丸はこれが大嫌いで、最中はもちろん、済んでからも壮絶に泣く。ひたすらあやす。どうにか寝る。たまったアレとコレを大急ぎで片付ける。やれやれと横になった途端にまた泣き出す。日々、果てなくこれの繰り返し。

 いまが昼なのか夜なのか。自分がまともに食事をしたのがいつか。最後に一刻以上続けて眠ったのが何日前か。すべてがもう、わからない。

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