ep.06 変
僕たちが水族館を出ると、外はもうすっかり夕方だった。夕焼けの色は地上にも映り、うっすらと無機質な建造物たちを橙色に染め上げている。
「うーっ、
水族館から出た僕は大きく伸びをする。なんとなく血の流れが悪くなったような感覚がすーっと抜けていき、体のだるさが抜けていく。楽しかったけど、疲れを感じてないわけじゃない。はしゃいだり、人混みに飲まれた分、自分が気づかないうちに疲労は溜まっていくものだ。
とはいえ、楽しい気持ちが強いから気分としては清々しい。暮れなずむ時間を惜しむくらいの気持ちの余裕はある。
反面、元気がないのは笠松さんだ。彼女は僕に鋭い目つきを向けると、苛立たし気に告げた。
「貴方ね、はしゃぎすぎよ」
「具体的には?」
「私を置いて先に行っちゃうとことか、子供よりも大きな声を上げるとこっ」
「いやぁ~」
「照れるとこじゃないわよね、照れるところじゃ」
そうはいっても、恥ずかしさがこみ上げてくるのだから仕方がない。手で頭を掻いて、笠松さんの非難を受け流す。
そんな真剣味のない態度に呆れた彼女は1つ溜息を吐く。
「楽しい思い出を作ろうって言った貴方は何処へ行ったのかしら」
「まずは自分が楽しまないとと思いまして」
「それで私の存在忘れてちゃ世話ないわよ、まったく」
「面目ない……」
なんて口では言うけど、ほんとのところは腰がひけがちな笠松さんを強引に振り回していたというのが正しい。身に沁みついてしまった悪習はやっぱりそう簡単に変えられるものではない。だから、こちらでペースを作ってやって、彼女を無理矢理突き合わせる方が効率的で、効果的だ。
もちろん、水族館が楽しかったわけじゃない。しっかり楽しかった。初めて来たから知らないことしかなくて、面白いことばかりだ。ただ、流石に我を忘れるほど楽しんでいたわけじゃないというだけ。
(それに、これは布石でもあるし)
「何よ、ほくそ笑んで」
「いや、何でもないよ」
おぉっといけない。緩んだ頬を抑えて、僕は彼女に言う。
「それじゃあ、暗くならないうちに帰ろうか」
「時間は16時過ぎね。今から帰ると、だいたい半くらいかしら」
最近の日没は17時くらいだから、このままなら余裕で日が出ているうちに帰れる。
人の流れに従って、僕と笠松さんは帰路に着く。周りの人達は水族館の感想やら思い出やらを口にしているけど、僕らは無言なままで、おまけに並んでもいない。笠松さんがわざとゆっくり歩いて、後ろからついて来ている。
ここで周りの人と同じように今日の思い出話でも振れれば良いんだけど、生憎と僕は感想とか、思い出語りとかが苦手だ。こう、瞬間瞬間を楽しむんだけど、その楽しい記憶が心から抜け落ちてしまうんだ。すとん、と。だから話す内容が特に思い浮かばない。
駄目だなぁ、と思いつつ、打開する手札が僕にはない。最後に上手く締められなかった。これじゃあ、今日の思い出が苦い思い出に――親との思い出と同じく楽しい思い出ではなくなってしまう。
なんとかしてそれだけは避けないと。そう思い、うんうん頭を唸らせていると、腰に僅かな、それでいて揺るがぬ意志が籠った抵抗を感じた。
そんなことをするのは、彼女しかいない。
笠松さんだ。笠松さんは少し目を伏せて、僕の服の裾を掴んでいた。
初めてのリアクションに、目を
「どうしたの?」
「…………」
笠松さんは僕の疑問に答えない。ただ顔だけ向けて、とある方角を見た。
視線の先にあったのは、平たく言えば土産屋のような場所だった。水族館内にあった店よりも規模が大きく、品揃えが良さそうだった。
「あそこに行きたいの?」
笠松さんは答えないし、首を縦に振らない。
だから、僕は促す。こればっかりは笠松さんから言ってもらわなくちゃ意味がない。
「笠松さん、自分のやりたいことを言ってみてよ」
「…………」
「僕に対して気を遣う必要なんか、ないんだからさ」
僕は笠松さんの親じゃない。笠松さんを萎縮させる、そんな存在として一緒にいるんじゃない。
笠松さんに寄り添う誰かとして、今目の前にいる。
「…………あそこに」
「うん」
「あそこに……行きたいです」
「なんで敬語?」
「う、うるさい」
怒り半分、照れ半分で、笠松さんは顔を赤くする。
うん、でもまずは第一歩かな。身につけてしまった悪習を克服するためには、まず自分で自分のやりたいことを言いだせるようにならなくちゃ。
笠松さんは上目遣いで睨みつけながら、
「貴方も好き勝手したんだから良いわよね」
「勿論、付き合うよ」
「そっ、じゃあ行くわよ」
笠松さんが浮き立つ足で、土産屋へと向かっていく。
僕は心の中でガッツポーズ。上手くいった。
彼女と楽しい思い出を作る上で邪魔になるのが、気持ちに蓋をして萎縮する悪習だ。けれども、どうしたって1日2日でどうにかなるものではない。
だから、イルカショーと同じで策を練った。今度は理由付けだ。僕が水族館で笠松さんをそっちのけにしたことで、僕が彼女に自分勝手に楽しんだ負い目を抱えている状態を作り出した。負い目を持つ相手に人は無茶な頼み事をしやすい。つまりは、頼み事を言い出しやすいわけだ。
少し笑って、僕は笠松さんを追いかける。帰る人々の中に紛れてしまえば、見失ってしまう。
「遅い」
「ごめんって」
文句を言われながら僕は彼女の隣を歩く。
土産屋の外装は水族館の店らしく、イルカや魚、ウミガメと言った水の生き物たちで飾り立てられていた。ポップにデフォルメされた動物たちが店の見た目を盛り上げている。
店の入り口に立てば、自動ドアが開いて僕らを迎えてくれた。緩めに入った暖房の風が、今日の僕らには少し暑い。
中には水族館関連のグッズがずらりと並んでいる。お菓子の類は当然のこと、文房具やキーホルダーと言った小物なんかも売っている。あとはフィギュアが入った卵型チョコみたいな、修学旅行で行った遊園地でしか見ないようなものも置いてある。これだけあれば何を見るかを決めるのも一苦労だ。
「さて、どうしよっか」
「……ん」
笠松さんは顎で行きたい方向を指し示した。
そこにあるのは、
「ぬいぐるみか」
なるほど……。
「…………ふんっ」
「――っぅ。え、何? 何で叩かれたの、僕?!」
「なんとなく変なことを考えたような気がしたからよ」
「べ、別に考えてないけどっ?」
意外と女の子っぽい可愛らしい趣味だなとか思ってただけなんだけど?!
笠松さんの考えることはよく分からない。それに手を出す前に、言葉が欲しい。なんですぐ叩くのかな。
なんか勝手にプリプリ怒りだした笠松さんは、感情の籠った激しい足取りでぬいぐるみコーナーへ向かっていく。
(よく分からないなぁ)
女の子の気持ちは勿論のこと、笠松さんのことだって。当然と言えば、当然だけども。だって笠松さんは学校で僕との接触は避けていたし、まともに話したのは今日が2回目。笠松さんのことを理解できているはずがない。
のんびり距離を詰めていきたいと思うけど、そういうわけにもいかない。
屋上での言葉を思い出す。
『私ね、冬が来たら死のうと思うの』
彼女は冬になったら、自殺しようと考えている。冬の冷たさに身を委ねようとしている。自身を苛む虚しさに耐えかねて。だから、あんまり悠長にやってはいられないのが現実だ。
(ただ、楽しいこと探しを続ければ、次の冬は自殺しないでくれそうだけど)
僕はぬいぐるみを見る笠松さんの表情を見て、そう思う。
きっと笠松さんは、その胸に抱いた虚しさをこれからも埋めることは出来ないだろう。胸に空いた穴のような感覚は、ずっとそのままだ。
だけど、一時的に忘れることは出来る。麻酔のように、虚しさを感じなくさせることは出来る。
もし楽しいことがあるならば、だ。
ぬいぐるみを選ぶ笠松さんの表情に陰りはない。イルカ、シャチ、ウミガメ、ペンギンなどなど。並ぶ小さな生き物たちに目を輝かせ、いつもの険しい表情を綻ばせている。虚しさなんて忘れてしまっているような、そんな表情だった。
僕は思う。
願わくば、そうした表情を彼女がもっと浮かべられるようになって欲しいと、いやもっと浮かべられるようにしたいと、そう心の底から――
(――――?)
ふと、湧いた感情に疑問を抱く。
今、僕は何を思った? 何を感じていた?
なんだか、いつもと違う気持ちを抱いたような……?
僕の戸惑いは沈黙となって笠松さんに伝わった。その静かさに違和感を感じたのか、彼女がこちらを見る。
そして、まさにきょとんと言うしかない表情で僕にこう聞いてきた。
「どうしたのよ? 胸を抑えて」
「……え?」
言われて、初めて気づいた。自分の右手が服に皺を作るくらいに強く握りしめていることに。
「もしかして体調悪い?」
笠松さんが不安げにそう問うてくる。
僕は慌てて彼女の懸念を否定した。
「いや、いやっ、大丈夫。ちょっと、その、そうっ、胸が痒かっただけ」
「……そう? なら良いんだけど」
笠松さんは少し納得できていなかった様子だったけど、それでも直にぬいぐるみ選びで楽しそうにしていた。
ふぅ、なんとか誤魔化せた。折角笠松さんが楽しめているんだから、僕が邪魔しちゃ駄目だろうに。一体どうしたって言うんだろうか。
理解できない自分の変化に、僕はただ首を捻るほかなかった。
頭が回っているせいか、店内温度がさっきよりも暑くなったような、そんな気がした。
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