ep.04 屋上少女、自殺願望
最終下校時刻間近の学校は酷く暗い。教室の電気どころか廊下の灯すらついておらず、奥行が分からないほどの深い闇が校内をのっぺりと覆っていた。
騒がしい学校が眠りにつく時間がやってくる。遠くから「早く帰りなさいよー」なんて先生の声が聞こえ、生徒たちが足早に立ち去る音がした。
このままだと校門が施錠されてしまいそうだ。急がないと帰るときに色々面倒なことになるかもしれない。
屋上への階段を上る足を気持ち速くする。放課後の手伝いで今日はもうくたくただ。早く帰ってのんびりしたい。
(まぁ、彼女はもう帰ってる可能性もあるけど)
何せ時間は最終下校時刻近い。学校の施錠が始まってる時間に、いつまで経っても屋上にいるとは考えにくかった。
というか僕としてはそっちの方が都合が良い。校則破りの不良娘なんて僕の手には余る。僕が出来るのはせいぜい困った時の人助けだけだ。
そんなことを思いながら階段を上りきると、酷く埃っぽい小スペースに出る。埃っぽいのは屋上なんて誰も使わないからだろう。誰も使わない場所は掃除場所に割り当てられない。せいぜい2学期が終わる前の大掃除で掃除するくらいか。
大量に舞う埃に嫌悪感で目を細めながら、片手で埃を払う。実際に意味があるかは甚だ疑問だけど、しないよりましだ。こう、気分的に。
屋上に繋がるドアのドアノブに手を掛ける。回してみれば、何の抵抗もなく回った。回ってしまった。
(開いてる……)
開いているということは、まだ彼女はいる、ということだ。
さて、どうしようか。ここまで来て、僕は足を止める。
屋上に限らず鍵は職員室で借りなきゃ開けられない。そして鍵を借りるには正当な理由を書いた申請書が必要となる。だけど他の教室ならともかく、正当な理由をでっち上げにくいだろう。正規の手段で鍵を手に入れるのは相当に難しいはず。だから、おそらく彼女は何か不当な手段で屋上の鍵を手に入れた。少なくとも僕はそう考えてる。
勿論偶然開いていたという可能性もある。だけど、屋上の扉が偶然に開いている理由が思いつかない。うちの学校の屋上には何もない。以前、先生がそんなことを言っていたのを覚えてる。屋上に何もない以上、屋上の扉を開ける事情も、理由もないはずだ。「偶然に開いていた」可能性は0に近い。
きっと僕の予想は当たってる。だから会いたくないんだ。鍵を不正入手する人なんて、とんでもない不良にしか思えない。関わりたくないと思うのは当然でしょ。
ただ、そう、ただ、そんな人を見過ごせないのもまた事実。だって学校の鍵が不正入手されてるなんて、とんでもない事態じゃないか。相手次第じゃ放っておくわけにはいかない。非行のパラダイスになってたら最悪すぎる。
うーん、としばし迷う。けれども良心に押される形で決断した。
ええいままよ、とそんな気持ちで僕は重たい屋上の扉を開く。
「――――っ」
開いた途端、差し込んだ夕陽の残照に目を焼かれた。反射的に目を眇め、片手で両目を庇う。
日がほとんど沈み切っているというのに、秋口の夕陽は鮮やかな橙色の光を黒い雲に写して紫紺の空に輝いていた。その光の眩さに僕は眩んだのだった。
「――誰?」
そんな僕に不機嫌さが籠った声色で、短い疑問の言葉が投げ掛けられた。そして投げかけられた声には聞き覚えがある。
光に慣れた目線を彼女に向ける。華奢と呼ぶには細すぎる体を持つ彼女は、肩口で切りそろえられた黒髪を遊ばせ、屋上を囲むフェンスの前に立っていた。
ただでさえ釣り目な目を更に吊り上がらせて、彼女は――笠松葵さんは毒を吐く。
「あぁ、今日の猿……」
「…………今日はスミマセンデシタ」
相も変わらず容赦のない言葉の鋭さに、僕はまたたじろぐ。
修二が言っていた『狂犬』という言葉の意味を改めて実感した。牙の向き具合が人と違う。いくらむかついているとはいえ、ここまで人に攻撃的になれるものだろうか。
まぁ、先に迷惑をかけてる事実を棚上げして、反感抱くのもどうかとは自分でも思うけども。
「猿は何しに来たの?」
「まず、猿呼び止めてもらって良い?」
「なら、相応の頼み方があるでしょ」
「止めてください、お願いします……」
「……まぁ、良いけど。でも、そもそも私、貴方の名前知らないし」
それもそうだった。
「僕は大井篤史。2年4組」
「そ。私は笠松葵。2年7組」
「…………」
「何? その苦虫を嚙み潰したような顔は?」
「…………いや」
一方的に名前知ってて、改めて自己紹介されると結構居心地が悪い気持ちになるなぁ。知ったのも陰口だったし……。
自分勝手に嫌な気持ちになる僕の内心なぞ露知らず、笠松さんは再度疑問を投げかけてくる。
「で、何しに来たの?」
「笠松さんが屋上にいるのが見えたから、ちょっと来てみた。何してるのかなって」
「ふ~ん、流石は優等生ね。校則破ってる私を告げ口するために証拠を押さえに来たってわけ?」
「いや、別にそういうわけじゃ……何か事情があるなら黙ってるつもりだよ。僕は優等生じゃないし」
「私から見れば十分優等生よ。あんな重労働しちゃってさ」
「重労働って草刈りのこと? あれはボランティア部の部長に頼まれたからやっただけ。人助けの一環だよ」
「そういうのが優等生って言ってるの」
そうかな。優等生は学校のルールに真面目な生徒のことだろう。僕はあくまで人助けをしてるだけ。優等生とは少しばかり方向性が違うと思う。
笠松さんは頑なそうだから、これ以上訂正したところで意味ないだろうから何も言わなけどさ。
さてそれで、こちらの事情は話した。次は笠松さんの番だ。
「笠松さんは屋上で何してるの?」
「…………別に、何も」
「そもそもとして屋上の鍵はどうやって手に入れたのさ」
「……………………」
だんまりかぁ。とはいえ、素直に答えてくれるとも思ってなかったけど。相手は不良娘にして、狂犬娘。きちんと事情を話してくれるはずがない。
う~~ん、参ったな。正直もう帰りたい。鍵の不正入手がとんでもない事態だとは思うけど、笠松さんは誰彼構わずに噛みつくだけで非行とかするタイプに見えないし、放置しても良い気はしている。さっきも言ったように僕は優等生じゃない。問題が起きないなら、多少の不都合は目を瞑るつもりだ。
ただ、鍵云々は置いておいて、笠松さんが
ただ屋上にいるだけ。鍵の不正入手のリスクに目的があまりにも釣り合わない。
(なら、目に見えない目的があるんじゃないの?)
何もしていないからって、それが意味を持たないわけじゃない。見ただけでは分からない目的だって十分有り得る。
例えば、心に抱えるしこりを取り払うため、とか。
普段なら自分から人に深入りすることはない。僕はあくまで受動的な人間。能動的に誰かに踏み込むことなんてしない。
だけど、もうここまで来たら乗りかかった船だ。笠松さんがどんな問題を抱えているのか。僕はそれを知りたい。
だって、だって、人助けを糧にする者として、彼女が抱える問題を見過ごすことなんて出来ないから。
とはいえ、正攻法じゃあ彼女は話してくれないだろう。だから少しずるい手を使わせてもらう。
「言ってくれないと、先生に言いつけるよ」
「……さっき言わないって言ったじゃない」
「何か事情があるなら、という条件付きでね」
「…………」
笠松さんが恨めしそうな――いや、違う、殺意の籠った目で睨んできた。
う……っ。いや、確かにそんな風になるよね。使ってる僕だって、卑怯だって思うもん。
でも、もう手札を切ってしまった以上、退くことは出来ない。賽は投げている。後はどんな結果が出るかだ。
鋭い目線を向ける笠松さんはしばらく悔しそうに歯嚙みしていたが、やがて大きな溜息を吐く。
「はぁ、仕方ないわね。話してあげるわよ。私も屋上を奪われるのは嫌だし」
彼女は背を向け、沈む夕日の方を向く。フェンスの金網を右手で掴むと、重たい声色で言葉を紡いだ。
「ここにいると紛れるの」
「何が?」
「自分の中の虚しさが」
ひんやりとしたものが屋上に満ちた、ように感じた。日が沈みきったからだろうか。空の雲はもう目に痛いほどの光は、もう映っていない。
「私は、誰かの楽しそうな姿が嫌い、誰かが幸せそうな顔をするのが嫌い、誰かの笑う声が大嫌い。自分の中にある虚しさが際立つように感じるから、教室で過ごす時間が腹立たしくてたまらない」
がしゃりと金網が震える音がした。笠松さんがフェンスを掴む手に力を入れたからだろう。大してメンテナンスをされていないフェンスは、僅かな力でも大きく揺らいでいた。
「だから屋上にいるのよ。屋上は誰もいなくて、誰からも距離を取れて、日常から隔絶されてる。心に無用なさざ波が立たないもの」
修二から聞いていた狂犬エピソードの背景にも、そういう理由があるんだろう。誰かと関わると不愉快だから、とことん人を遠ざける。なるほど、納得できる行動だった。
屋上にいる理由は分かった。これで終わりだと思っていた矢先、更に言葉を続けるために僅かに息を吸う音が聞こえた。
「私ね、冬が来たら死のうと思うの」
唐突で、脈絡を失った言葉があった。
ひゅっと自分の喉が鳴ったのを、僕は他人事のように感じる。
今、何て言った……? 死ぬって言ったか……?
混乱する僕のことなんか当然顧みず、笠松さんは滔々と続けた。
「冬になれば凍死出来るもの。ほら、首つりととか身投げとか怖いじゃない? 凍死なら雪の中に身を沈めれば良いだけだもの。止めようと思った時には、凍えて逃げ出すことなんか出来ないだろうし」
寝耳に水の言葉に泡を食った僕は、彼女に上手く回らない舌で言葉を吐き出す。
「死ぬって、それは……っ」
根耳に水の言葉に泡を食った僕は、遅まきながら上手く回らない舌で言葉を吐き出す。
笠松さんは僕の話なぞ聞いちゃいなかった。僕の言葉を無視して、彼女は独り言を続けていた。
「これ以上、虚しさを抱えたまま生きていたくないもの。辛い思いがずっと続くなら、いっそ終わらせてしまった方がずっと良い」
「いや、だからといって死ぬのは行きすぎだよ。生きてれば良いことあるよ」
気休めを言う僕に笠松さんが笑った気配がした。無知な子供を笑うような、そんな微笑みを浮かべているように思えた。
それから諦めと嘲りの籠った声で笠松さんは言う。幼子を諭すように、夢見がちな生徒に現実を説くように。
「虚しさって、そういうものよ」
ぞっと背筋に嫌なものが走る。
およそその言葉には上っ面の感情以外の、中身というものが感じられなかった。笠松さんが何もかもが無意味だと決めつけ、自分自身を放り捨てていることがよく分かる言葉だった。
伽藍洞。まさしくそんな言葉が当てはまる。抵抗する意志も、嫌だという感情も、須らくを持つことを辞めたのが今の彼女だ。
だから見過ごせない。僕は受動的な人間だ。だからといって、目の前で自殺願望を抱える誰かを無視できるはずがない。
これは僕の領域だ。
僕が生業とする人助けの領域だ。
宵闇の澄んだ空気を吸い込んで、いったん気持ちをリセットする。冷たい空気が僕の思考を覚まさせる。
そして、意を決して僕は彼女に告げた。
「だったらさ、その虚しさを無くせるものを探しに行こうよ」
「え?」
予想もしていなかった言葉に驚いたのだろう。虚を突かれた顔で、笠松さんが振り返る。
僕が初めて見た、不機嫌以外の彼女の表情。それが少しおかしくて笑ってしまう。
そんな僕を眦を上げる笠松さんは見咎める。何度向けられても慣れないなぁ、その表情は。
「何? 優等生クンは可哀そうな私を憐れんでくれちゃってるわけ?」
「別にそういうわけじゃないよ。困ってるなら手助けするよって、ただそれだけ」
「そういうのを余計なお世話って言うのよ。嫌がらせのつもり?」
「だから違うって。自殺したいなんて言ってる人を見過ごせないのは当然でしょ」
「…………ちっ」
僕が突きつけた至極当然で、当たり前な正論に何も言えなくなった彼女は言葉に窮して舌打ちをした。
「勝手に言ってると良いわ。どうせ、何も出来やしないんだから」
「それはやってみないと分からないよ。もしかしたら何かが変えられるかもしれない」
笠松さんと僕は平行線。まだ交じり合う気配のない僕らがどういう未来を辿るかは、今後の僕の頑張り次第だ。
キーンコーンカーンコーン、と都合良く学校のチャイムが鳴る。最終下校時刻のチャイムだ。これ以上、屋上にいるわけにはいかない。
だから。
戦線布告にも似た簡潔な宣言を、僕は彼女に決然と告げる。
「僕が必ず消してみせるよ。笠松さんの中にある虚しさを」
残暑が終わる9月の暮れ。冷たい空気が足元に這い寄る今日この頃。
秋と夜を誘うひんやりとした風が、相対する僕らの間を吹き抜けて行った。
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