第7話

俺の所へやってきたHALがゆったりとしゃがみこんで。本当に心配はしているのか、ただの素振りかそのような顔で俺を見つめ、手を伸ばしてきたのでビクッとしてしまった。そこでHALが手を止めてニヤッと嫌な笑みを浮かべた。


「………ッ、」


…HALがその手をさらに伸ばして俺の頬に触れた瞬間に全身に鳥肌と凄まじい嫌悪感が走った。

相変わらず何か言っているが俺には一切聞こえなくて、けれど聞こえないことはある意味僥倖だったのかもしれないと思いつつ、だけどやっぱり状況把握が出来なくてひたすら恐ろしい事には変わりがなくて。歯と歯が噛み合わなくてカタカタと震えているのが自分でもわかるが、抑えられない。ただただ恐ろしいのだ。本当に、何度でも言うが本当に恐ろしくてならないのだ。そうこうしていたら、何かイライラしているHALが俺の前髪を掴んで顔を上げさせ目を合わせられたと思ったら腕を振り抜かれて顔を思い切り殴られてクラクラした。それを数度食らわされて口の中は血の味がするし焦点が定まらない状態で。すると今度は前髪を掴まれたままズルズルと移動させられて、痛みで思わず悲鳴を上げた。


「う、あッ…!やめ…!!」


そこでハッとした。自分の声が耳に飛び込んできたのだ。そして引き摺られている音も、周りの空気の音も、HALの足音も、雑音も。…耳が元に戻った!


「HALやめろよ、ッく、離せ…ッ、」


「………瑞貴、君ほんとに聞こえてないのかなぁ…?」


HALの低い声が聞こえて、痛みに耐えながら必死に答えた。


「おかげさまで、…今治ったよ…!痛いって、離して!!」


そう言うとピタリと動きを止めたHALはゆるっとこちらを向いてまた不気味な笑みを浮かべて。ああ、鳥肌が収まらない。


「…なぁんだ、治ったんだ?困るもんね、聞こえないと…。ーーーそうだ、瑞貴に聞きたいことがあるんだよね。」


パッ、と手を離されて開放された瞬間にドサッと床に転がって、せめて顔を強打しないように顔を横向きにして倒れた。HALは再び俺の前でしゃがみこんで笑顔のまま訊ねてきた。


「こないだ俺、指輪贈ったでしょ?なんで着けてくれてないのかな?せっかくサイズも瑞貴の薬指に合わせたのに…。」


「……着けられるわけないだろ、俺には類がいるし着けようとも思わない。」


「………類、類、って。あんなのがどこがいいのか本気で分からないんだよね。ただデカくてドラムがちょっと上手いだけのいい加減な男じゃん?俺の方がよっぽど頼れると思うけど。」


「っ、HALにとってはそうかもな。でも俺には違う。いい加減とか思った事ない。…類がどれだけ俺にとって大事で唯一無二の存在かなんてHALにわかってもらおうとも思わないし、俺は類以外要らないし見ない。指輪なんか類が捨てた。」


「……ふーん、そっかぁ。オーダーメイドだから高かったのになぁ……。」


あーあ、と言い捨てて立ち上がったHAL。…なんだ、次は何をするんだ。全身緊張状態でガチガチになっているせいで消耗が激しい。恐怖するということはただそれだけで激しく消耗していくことを2年前に俺は体験済みだ。


「なら、」


そこで言葉を止めたHALが俺の後ろ側に周りこんで縛られている手を掴みあげて肩の関節が破壊されそうに痛くて呻いた。


「ぐっ…、つ…!」


「なら、左手の薬指なんか要らないよねぇ?」


「!!!」


…きた。この展開は。


「だってそうだろ?その指に嵌ってるリングは多分類とのペアリングだろうけど、俺以外から贈られた物つけてる時点で用はないんだよねぇ…。」


そう言いながら俺の握りこまれている左手の指をギリギリと剥がしていく。…剥がされてたまるか!そう思って全力で握りこんでいたのだが、腹が立ったのか後頭部を殴られて力が抜けてしまい、容易く開かれてしまった。


「やめろHAL、頼むから、」


「んー?まだ何するかなんて言ってないよ?」


「お願いだ、指はやめてくれ、ーーー頼む。」


「あははは、瑞貴ピアニストだもんねぇ…。でもね、知らないよそんな事。」


「!!」


一気に低くなった声色に恐怖で固まってしまった。HALは俺の左手薬指を握ったり軽く反らしたりしている。やばい、折られるか切り落とされてしまう。どうする、どうすれば、…類、助けてくれ!!

怖くて叫びも上げられずただ迫り来る恐怖を待ち構えているしか出来なくて息を殺していたら、


バキッ!!


という鈍い音が響いて、すぐに激痛が脳を突き抜けて叫んだ。


「あ"あぁぁ"あッ!!!」


「あははは。痛いよねぇ?わかるわかる。」


やられた、…左手薬指を根元から折られた!!激痛で吐き気すらする。だけど吐くものなんてないし、ひたすら痛みに耐え抜くしかなくて。前に回ってきたHALがそんな俺を眺めてぬるい微笑みを浮かべている。っくそ、このサイコパスが…!!今度はなんだ、何をする気だ。そう構えて固まっていたらHALはそのままゆらりとどこかへ消えてしまった。


「…っは、はぁっ、ーーーっ、はぁッ…、」


ああ、くそ、左手薬指が。だけどこの際それはいい。折れた程度ならきちんと治療すればいずれ治るからだ。問題は、そう、問題はここからだ。この後俺はどうすればいい。HALがどこかへ姿を眩ませた今、俺ができることはなんだ。腕は後ろ側で縛られているのでどうする事も出来ないし…。だけど脚は投げ出されている。俺が逃げられないと踏んでの事なのか、何も縛られていないのだ。考えろ、考えろ、この後どうする。痛みで落ち着かない呼吸と汗の中、若干混濁している意識を奮い立たせた。何とかしてこの寝転んでしまっている体勢から上体だけでも起こせれば立てる。


「ッく…!!」


折られた薬指が激痛なので仰向けになんか絶対になりたくないのだが、起き上がるためには必要で。痛みを覚悟して仰向けに転がり、目眩がするほどの激痛に耐えて腹筋のみで上体を起こした。


「はっ、はぁッ、はぁッ…、」


…永遠に逃げ回るのは無理だとして、それでも類や社長がここを見つけて探しに来てくれるまでの時間稼ぎをしなくてはならない。グッ、と唇を噛み締めてフラフラした足取りで、それでも足音を立てないようにその場から離れてこの建物の中の入り組んでいてややこしい場所に移動してきた。ここはどうやらどこかの倉庫のようで、とても広い場所である。息を殺して、それでも直ぐに動けるよう立ったままで身を潜めた。ポケットにスマホは入っているのに、手が後ろで縛られているからそこに手なんて伸ばせないし、類たちにコンタクトなど取れない。とりあえずはここでじっとしているしかないようで、どんどん消耗していく中でHALとのリアル鬼ごっこが始まった。



第7話 完

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