第6話
異変が起きたのはその直後だった。…音が聞こえない。
…え、何?類は何をそんなに慌ててるんだ?
誰に電話してるの?
ーーー何も聞こえない。…あれ、これもしかして俺ダメなやつなんじゃないの?
混乱の最中そんな事を思った。気が付いたら外部の音が何も聞こえず、勿論類の声も全く聞こえなくなってしまった。類が何かを俺に話しかけているのだが、一体何を言っているのかも分からないし、ただ口をパクパクしているだけのようにも見えた。流石に宜しくない状態すぎて、恐怖心はあるものの力の入らない身体で無理やり力を込めて起き上がって、スマホを取り出して類に伝えないとと思った。メモ帳を開きフリックして、音が聞こえないことを伝えたら、類が絶望的な表情をして俺の肩を掴んで必死に言葉を紡いでいる。だけど聞こえないから首を横に振ったら、肩の手が一層強くなり俯いてしまった。
…実はこの聞こえなくなるという症状、2回目だ。かなり昔に同じ症状になったことがある。だから比較的楽観視はできていて。一生一切聞こえなくというような類いのものではなく、あくまで一過性のものである。…精神的なショックにより、聴覚が機能しなくなっている、のだそうだ。情報を遮断しようとして、防御反応の一種で聞こえなくなるという、そういったものがあるのだそうだ。
こうなってしまった以上は筆談しかコミュニケーションを取る術がないので、それを含めて類に伝えなくてはならない。
肩を掴まれたままで引き続きメモ帳に文字をフリックした。
『この聞こえなくなる症状って実は2回目で。
昔同じような事になったことがある。
精神的なショックにより一時的に全く聞こえなくなっちゃう症状らしい。
多分すぐ聞こえるようになると思うから
安心して。
心配かけてごめん。』
そう打って類の肩をポンポン、と叩いて、泣きそうな顔の類に読ませた。それを見た類が難しい顔をしながらLIMEを開いて俺にメッセージを飛ばしてきた。
類
『瑞貴』
『全然聞こえてないって』
『ちゃんと治る?それ…』
俺
『治るよ』
『前の時は2、3日で元に戻った。』
『だから安心していい。』
『ただでも』
『音が本当に一切聞こえないから』
『もし何かあったら咄嗟に反応できないと思う』
『だから類』
『頼んだよ。』
類
『わかった。心配だけど、早く復帰できるように俺も何とか色々調べてみる』
『…耳が聞こえないって瑞貴が考えるよりもずっと危険で』
『咄嗟に反応できないのもそうだけど』
『歩行バランスすらも取れなくなったりする』
『だから瑞貴は耳が治るまでは仕事休みな。』
……仕方ないか。流石に音を扱う仕事をしていて耳が聞こえませんとなれば休むしかない。なのでスマホをパサッとベッドに投げ置いた。これもHALが原因で起きたショック反応のひとつだとして、類はこれを絶対に許さない。その証拠に物凄く怖い形相でスマホに向かいLIMEで誰かと連絡を取っている。だけど思い知った。あれから2年が経過した今も、俺はHALのこととなると恐ろしくて竦みあがって身動きが取れなくなるのだということを。今は類が目の前にいるから動けるし息もできる。ただ、それが情けなくて。
その後、強制的に仕事を切りあげることとなり全員帰宅した。一切音のしないミキシングルームで片付けだけを済ませて帰宅する準備をしていたら、肩にポンポン、と手を乗せられてビクッとして。振り返ったら類でホッとした。LIMEによると、俺の方の片付けが終わったら帰るよ、との事だった。肩に手を乗せられる、たったこれだけの事でこうなってしまうのだから本当に情けない。それに日常生活が不便になるなぁとか考えながら片付けを済ませて、類に連れられて帰宅した。自分の呼吸音すら聞こえないというのは本当に不思議で、まるで上下左右に何も無い広い空洞に浮いているかのような感覚に陥る。
キッチンで2人で調理する時も、『何を作るのか』『誰が何を担当するのか』この辺りは最低でも確認して意思疎通させておかないと被る事もあるわけだ。
その夜は無音のままの夜を過ごし、だけど類に抱き締められているからその温もりだけは伝わってきて安心できて。どうしようもなくて、ただ泣きたいのを堪えて一晩が過ぎていった。
翌日、はた、と目が覚めて身体を起こしたら類が横で心配そうな顔でこちらを見ていて。この目と、そして頬に触れるその手のひらや唇の温かさだけが存在を確かめられる術で、危ういバランスの中崩れないようにするには類の支えがどうしても必要で、少し姿が見えなくなるだけでどこかへ行ってしまったのでは、俺を置いて消えてしまったのではと思って強烈に不安に見舞われる。耳が聞こえなくなるというのはそういう事だと改めて実感する。
それから4日後。
まだ耳は治らず、聞こえないことが原因での俺の鬱状態もだんだん酷くなってきて類に迷惑ばかり掛けていていて、それが更に自分自身を追い込む要因となっていた。類は社長にも勿論話は通してくれているし、実際にお見舞いにも来てくれて。その際類は社長と何か色々と会議?のようなものはしたらしいのだが俺にはそれが一切聞こえないために蚊帳の外感が凄まじくて余計鬱になってしまった。…俺の事で話し合ってくれていたのであろう事は分かるのだが、本当に世界が暗闇で。俺にとって音が聞こえないということは、世界の色彩が一切合切全て消え失せるようなものだった。
…家の敷地内ならいいだろうか、少し外の空気が吸いたい。思ってそう類にLIMEを送ったら、すぐに類が返事を寄越してきた。俺同伴ならいいよ、との事だったが、少し1人なりたいのだ。だから、5分で戻るから1人にしてと伝えてなんとか了承をもらい、類が玄関のドアの内側にスタンバイすることを条件に外に出た。
類には無茶を言ったがそのまま玄関を開けて外に出た。…小春日和というやつか、とても良い天気で、だけどまだ1月なので全然寒い。相変わらず貼り付けたみたいな景色で一切心に何も響いて来ないがずっと家の中にいるよりはまだマシで、冷たい空気の中でボーッとしていた。何かをする訳でもない、ただ外の空気を吸いたかっただけだ。けれど気分転換になるかと思ったがそうそう転換できるものでもなかったらしい。
…スマホを見て、やがてそろそろ5分が経過すると思いポケットにスマホを突っ込んで玄関に向かいドアを開けようとしたその瞬間だった。後ろから口と鼻に布のような物を宛てがわれ、その瞬間に意識が無くなっていた。
「……………。」
ふ、と目を覚ましたら、冷たいコンクリートのようなものの上に横たわっていて、思わず寒さで身震いした。
…ああ、HALにまた攫われたのか、俺。
それを自覚した瞬間ガチッ、と全身が金属にでもなったかのように固まって微塵も動けなくなった。
耳が聞こえないから今どういう状況でHALがどこにいるのかもわからない。呼吸をするのも見つかりそうで恐ろしいし、ああでもこの場所に居るということは既に見つかったあとで。混乱する頭で必死に考えた。両手首を後ろで縄か何かで縛られているせいで動かせない状態だったが、それならそれで、と思いなんとかひっくり返って仰向けにはなれた。のだが。
ーーー視線の斜め前に、椅子に座ってこちらを見て微笑んでいるHALと目が合った。
「ーーー、ーー、ーーーーー、」
何か言っている。なんだ?聞こえない!聞きたくはないが聞こえないは聞こえないでどうする事も出来なくて困る。そもそもここはどこだ?
…外に1人で出たいなんてわがままを言わなければよかった。そもそもHALはこういう隙を逃さないストーカーであることを失念して、5分間だけなら大丈夫だろうと油断してしまっていたのだ。焦りと恐ろしさで何も出来ないし、上手く思考が働かない。聞こえないことで反応が多分おかしいであろう俺の異変に気づいたのか、HALが険しい顔で多分大声で何かを言っているらしいが全く聞こえない。このままだとHALをキレさせてしまうしよろしくない気がする。だからせめてそれを伝えなくてはいけないと思い、自分の声も聞こえないから上手く発音が出来ているかもわからないが、とりあえずは口を開いた。
「いま、耳が、き、こ、え、な、い!!」
多分伝わったと思う。証拠にHALがポカンとしていて読めない目の色で俺を見下ろしている。
「……ーーー、ー、ーーーーー、」
だから聞こえないというのに、バカなのかこいつは?ああもう、コンクリに投げ出されているせいで身体が痛いしめちゃくちゃ寒い。そもそも5分だけの約束で外に出ただけなので厚着をしていないし、どちらかと言うとかなり薄着なのだ。
寒さでカタカタと身震いをしているが、恐怖からくる震えもあるのだと思う。…ああ、類、社長。早く助けに来て。じゃないと何をされるか本当に分からないから。今頃2人とも必死になって緒方家本邸にある探査システムを駆使しながら俺の行方を探っているのだろう。そもそも捕まってからどれぐらいの時間が経過しているかもわからないし、本当に俺はなんて迷惑なやつなんだろう。2年前もそうだった、スタジオからコンビニへ買い物に出かけた時にHALに車で攫われて酷い目に遭った。学習能力というものがないのかよと自分に言いたい気分だし、同時に酷く責め立ててもらいたい気分に陥ってしまう。
…何をされるかはわからないが、HALが2年前の恨みを晴らすため、そして先日の類への宣言である『俺を略奪する』という一言を実行するならばやはり好き勝手な事をされるのだろうと言う予想はできる。恐らくはまた襲われるのだろうし、殴られ蹴られ、もしかしたら俺が抵抗を見せてしまったら今度こそ両手の指を切り落とされてしまうのかも。そう考え出したら恐ろしくてならなくて。
…類はちゃんと危惧していて、絶対に俺を1人にしなかった。なのに1人になったのは俺だ。全部俺の招いた事だ。そんな事を考えていたら、目の前にHALの足が見えた。
第6話 完
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