かけおちの思い出
翌朝起きるとまず、顔を合わせたのは男の子だった。昨晩私たちに手料理を振舞ってくれた男の子。王室騎士団のグレアム・ウィンストンくん。
「おはようございます」
恭しく腰を折って挨拶してくれる。まぁ、さすが都会の騎士さんね。所作が綺麗だわ。
彼の作ってくれたベーコンエッグを前に私は新聞に目を走らせた。我が校のことはまだ書かれていない。一安心できたのと同時にじりじり迫られている気分にもなった。
「おはよう」
猫の姿をしたマリエルが伸びをしながら現れた。
「よく眠れた?」
「実を言うとあまり……」
と、私の手元の新聞を見たのか、マリエルがつぶやいた。
「大丈夫よ。娘に任せておきなさい」
「でも……」
と、私が言い淀むとマリエルはしっかりとした目でこちらを見てきた。
「あなたは打つべき手を打ちました」
不思議なのだ。昔からマリエルに見つめられると胸の奥が揺さぶられる。私以外の友達も言っていたから、多分彼女の特性なのだろう。西クランフの魔法使いの家系だと聞いているが、彼女の目、魔法の目だ。きっと彼女の夫、アウレール・ホルストもあの目に惹かれたに違いない。まるで、そう、サファイアのような……。
「おはようございます」
きちんと身支度をしたシャロンさんがいらっしゃった。彼女の目も、変わっている。グリーンとレッドのオッドアイ。確か、東クランフの方の人に見られる特徴だったと思う。
お父様とお母様から立派な遺伝子を受け継いだ彼女がどう本件を解決するのか。
楽しみであるような、不安であるような、妙なドキドキが、胸を支配していた。私はぎゅっと胸を抱き寄せた。新聞を置いて、それから騎士様の焼いてくれたベーコンエッグに目をやる。
「食べなさいな」
マリエルがつぶやく。彼女は猫にしては上品に、ついばむようにして卵を食べ始めた。そういうところは変わらないのね、マリエル。あなた昔もおちょぼ口でものを食べてた。
「グレアムくん、紅茶用意するね」
シャロンさんが台所にいるグレアムさんの隣に立つ。あらまぁ、何だか夫婦みたい。
「二人は、結婚は?」
私が訊くと、マリエルがにっと笑った。
「まだみたい。でもいい雰囲気でしょ?」
「本当に」
「毎晩バルコニーで夜空を眺めているのよ。一緒に」
「まぁ……」
ロマンチック……。
しかしこんな風に
「解決の目途は立ちましたか?」
すると娘さんが微笑んだ。
「ひとつ質問をさせていただいてもよろしいですか?」
「どうぞ」
「最近他校との交流は?」
私は少し首を傾げる。こんなことが何の役に立つのだろう。
「たくさんありましたわ。この時期の学校は文化交流が盛んな季節です。我が校と交流があった学校は、サッコマーニ女学園と、レオーンチェバ魔女学校、バラクロフ男子総合学校……もちろんアルドリッジとも。ああ、そうだわ」
私は記憶の糸を引っ張り寄せる。
「上級生をフェアチャイルド幼稚園に教育実習に行かせました。あれを他校交流ととるなら、そうです」
「そうですか」
娘さんは満足そうだった。
「お母さん、バラクロフの人に知り合いはいる?」
娘さんの質問にマリエルはうーんと唸った。
バラクロフ? あの素敵な紳士を育成する学校と、我が校との間にどんな関係が? 私が疑問を抱えて目だけをうろうろさせていると、マリエルが口を開いた。それは私に向けての発言でもあった。
「エディト! エディト・クールベは確か教師になってバラクロフに行ったわよね?」
「エ、エディト……」
苦い思い出が蘇って、私は唇をすぼめた。エディト・クールベ。私がかつて、想いを寄せていた男子。
彼とは苦い思い出があるのだ。アルドリッジの三年生だった頃、私とエディトは恋仲だった。そしてあのくらいの子供の恋愛にありがちなことだが……私たちは妙にドラマティックなことに憧れていた。私もエディトも、自分を悲劇の渦中に置きたがった。そうして逆境に耐えている自分を演じることで、禁断の愉悦に浸る、そんな楽しみがお互いにあった。
有体に言おう。私もエディトも「自分たちは周囲から反対された恋仲で」「理解が得られない二人で」「だから二人で困難を乗り越えていかなければいけない」そんな妄想に憑りつかれていた。実際、成績も比較的よくお嬢様育ちだった私が農村から上京してきた田舎育ちのエディトと恋愛関係になるなんて誰も想像しておらず、私の周りの女の子たちはみんな、家柄も人柄も立派な白馬の王子様が来ることを期待していたし、その王子様を手に入れるためならどんな手段にも出るつもりだった。しかし私の王子様は干し草の中から現れた。周囲の子がやれどこどこの名士のお子さんである何々様の恋人になれたらだとか、やれスラーシフの得意な運動神経抜群の彼の大切な女性になれたらだとか口にしている中、田舎者のエディトを紹介することがどれだけ心苦しかったことか。そして彼の方でも、草笛の吹き方ひとつ知らない女を友達に紹介するのは気が引けていたらしく、私が彼の友達に紹介されることはついぞなかった。私たちは人目を忍んで、それぞれの寮を抜け出し夜中の学校をうろつき、階段の裏だとか、馬小屋の屋根だとか、そういうところで逢瀬を重ねた。やがて妄想は、私たちを学校の外へと連れ出した。私とエディトは「家出」をしたのだ。
学期中のことだったので、それは男子寮女子寮、それぞれからの脱走を意味した。新月の夜、私たちは手を取り合ってアルドリッジの門を抜け出し、広い外の世界へ……行こうとした。決行後三分で計画は頓挫した。
「愛は育むものだ。暴走させてはいかん」
当時の校長、クリフォード・ウォーレン・ロイド・アーネット先生は学校の門にかかっていた「無限繰り返しの魔法」の中に閉じ込められていた私たちを救い出してから告げた。お説教ではなく、柔らかなお言葉だった。
「若芽を引っ張れば抜けてしまうな。それは分かっているはずだ」
多分、慣れていたのだろう。あれくらいの年頃の男子女子が想いを暴走させてしまうことには。
そんなわけで計画に失敗した私たちだが、別れは突然だった。五年生の時、エディトが他の女の子に浮気したのだ。あの時は体中の水分がなくなるくらい泣いた。マリエルはずっと励ましてくれた。
「何よ、今に見てなさい。あんな男なんて霞むくらいの男性が、ミシェルにはつくんだから」
思えばマリエルと仲が良くなったのは、この失恋がきっかけだった気がする。マリエルが簿記学のノートと引き換えに私にベタベタバター味のチャムニーをごちそうしてくれて、その時に私の恋のお悩みを……もう振られていたけれど……をして、そこで彼女が怒ってくれて。懐かしいな。あの頃からマリエルは優しくて、私が困った時に手を貸してくれた。
そんな物思いにふけっていると、目の前のマリエルが「大丈夫?」と猫の顔を覗かせてきた。私は背筋を伸ばした。
「大丈夫」
「何か懸念点でも?」
娘さんが首を傾げた。まぁ、まだあなたには愛した男性に裏切られる気持ちは分からないでしょうし、分かる必要もないわ。そう思ってきゅっと口を結んだ。
「いいえ。何も問題はありません」
娘さんはきょとんとした。それからつぶやいた。
「それじゃ今すぐ連絡をとってみましょう。大丈夫ですよ。先生の問題はその一報で解決するはずです。向こうもきっと喜びますよ」
えっ、と声を出しそうになった。あんなに手がかりの少ない難問がもう解決? 子供たちの行方が分かったの? 目を丸くした私の、心の問いが聞こえたのだろう。娘さんは答えた。
「だって、簡単ですもの」
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