十一 オイラー・ホイヘンス

 二〇五六年、八月十四日、月曜、二十時。

 バンコク、優生保護財団本部。


 未来を安定した世界へ導こうとする者は排他され、その存在は公表されない。

 独りよがりなまやかしに浸り、全てが平等だと思う人々にとって、都会の黄昏を闊歩する者たちの蝕まれた姿や、高層建築の夕映えが、どれほど優美に官能的に映るだろう。際だつのは刃物のような危険極まりない自己を鼓舞する者ばかりで、社会を内部から食い荒す存在に誰も気づこうとしない。


 仮に幻の反映と虚飾に満ちた管理社会に気づき、為政者が何を意図し、社会を何処へ導くか気づいても、どうすれば幻の反映と虚飾をかなぐり捨てて真実を見れるか誰も理解できない。気づいた者も社会の申し子であり、外部から客観的に社会を観察できるように育成されていないからだ。


 人の欲望を満たすため、経済はあらぬ必要性を説いて新たな製品を生産し、必要以上に所有させて管理の必要性を生み、廃棄手段とその手続と廃棄物を生む。幻の反映と虚飾に満ちた社会は廃棄物にあふれた大地を産み、社会を破壊する階層社会に向ってアポトーシスの如く進む。


 埋蔵資源によって作られた廃棄物は環境を破壊し、地球は有史前の原始惑星へ変遷する。地球が膨大な時をかけて地下に封印した物質を変化させ、無防備に地表へ曝けだしたためだ。

 確かにこれらは経済という欲望の基に成立する正論だ・・・。


 高層階の特殊強化ガラス張りの部屋にいるオイラー・ホイヘンスは、グラスを持ったまま部屋の中央に立つ男に背を向けて、窓の外を眺めた。

「君は、二十一世紀初頭の馬鹿な経済学者や政治家の二の舞いをする気か?

 現状分析しかできず未来予測も本質的な人の欲も見抜けなかった過去の経済学者が、いかに間抜けだったか考えてもみたまえ!」


 言われた事だけでなく、先の事を考えろと言いたいのかと男は思った。


「法律を変えれば済むものを、組織を変える馬鹿をして、挙句が国家財産を他国に投資して失敗したのだぞ。

 経済力を他国に売渡す失策につぐ失策を重ねながら、本人たちはのうのうと大学教授や経済大臣を務めてメディアに登場し、失策の言い逃れをしたんだから全く飽きれる」

 ホイヘンスは窓の外を見ながらそう言った。


 今度は、言い訳するなと言いたいのか。俺は言われたとおりにやっただけだ。

 男は床を見つめてそう思った。 


「あれは確率的に奇跡なんだぞ!回収したのか?」

 ホイヘンスは窓の外を見たまま、手にしたグラスを飲み干した。

「回収して再生するよう手配しました」

 男は直立不動のままそう答えた。

「エレベーターを操作したのか?」

「いいえ。あれは事故です・・・」

「そうか・・・」

「・・・」

 男は何も言えずに窓の外を見た。


 数百メートル以上離れて隣接するビル群とそれらを繋ぐ架橋が、夕暮れの雨に霞んで見える。百数十階下にあるバンコクの地上は霧に霞んで皆目不明だ。

 男は窓の外を見たまま三時間前を思い出した。今も彼の悲鳴が男の耳に残っている。男は任務失敗を痛感していた。


 ホイヘンスの脳裏に、ヘッドハンティング担当者の顔が見え隠れして、優性保護財団にヘッドハンティグされた過去を思い出した。

 投機とそれに類する投資が禁止されて、株式市場が規制された。だが、いつの世も人の欲を当て込む者が現れる・・・。

 あの時、ヘッドハンティングの担当者はそう言って、誰が担当者を差し向けたか明かさなかった。あれは、私の考えを見抜いた行動だった・・・。


「それで、採取組織の再生状況は?」

 ホイヘンスは窓の外を見たまま、男に背を向けている。

「凄まじい速さで再生しています。七十二時間以内に原形復帰します」

 男はの声がうわずっている。


「成体にか?」

 ホイヘンスが振り返った。驚きの顔で男を見ている。

「はい・・」

「癌化は無いのか?」

「今のところ、ありません・・・」

「もしもの場合、彼らを捕えてもらう。失敗は許されない・・・」

 ふたたびホイヘンスは窓の外を見た。

「わかりました・・・」

 男もまた窓の外を見た。

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