十二 復活

 二〇五六年、八月十四日、月曜、二十二時。


「宏治、生き返ってね」

 ユリは、帝都中央地区学術研究区域、帝都大学病院の特殊病棟六階の病室に泊り込んで祈った。


 翌日、八月十五日、火曜、十八時。

 宏治が事故に遭って二十四時間後。

 宏治の心電図に小さな規則的変化が現れて、脳波に微細なδ波やθ波が現れた。

 破損した体組織の再生が始って、脳波に安定したα波が現れた。

 変形した骨格が再生してる・・・。凄まじい速さだ・・・。

 未分化細胞とテロメアの影響かも・・・。

「父さんっ」

 ユリは病室に泊り込んでいる大隅教授を呼んだ。


「静かに・・・」

 教授がユリを制した。

「父さん。宏治を家に運ぼう。ここは危険だわ」

 ユリは教授に囁いた。二人は宏治に付き添ったままだ。

「再生中に動かすのは危険だ。再生が終ってからがいい」

 教授はユリに囁いた。


 二日後、八月十七日、木曜、十八時。

 昨日まで、宏治の破損部は体組織の再生とともに大きな瘡蓋で覆われていたが、今は全てが剥がれて、傷跡がかろうじてわかる身体組織に再生し、その上に透明な硬い皮膚のような物が形成されている。だが宏治の意識は回復していない。

「やはり、家へ運ぼう」

 教授はユリに囁いた。



「ユリ・・・」

 宏治の意識が回復した。

「何?」

 ユリは宏治の手を握って宏治の口元へ耳を寄せた。

「大きい声を出すな。ここはホイヘンスに監視されてる。

 男に小指を切り取られた・・・」

 宏治がユリに囁いた。ユリは宏治の耳に囁き返した。

「わかった。小指はあるよ」

「あの男は僕が死ぬと思って、ホイヘンスの指示だと言いながら小指を切り取った。

 僕の体細胞から僕のクローンは作れない。

 皆、奴らの手の届かぬ所へ逃れろ」

「なぜ、クローンを作れないんだ?」

 教授も宏治に顔を近づけて囁いた。

「テロメアに教えられた。

 テロメアは対象を選ぶ。強制的な初期化はできない。

 配偶子のテロメアは好みの配偶子を選ぶ。そうしないとテロメラーゼを生成できない」

 宏治はやっと聞き取れる声で囁いた。。

「わかったわ。退院手続して宏治を運ぶ。父さんはここに居てっ」

 ユリは囁いて病室を出た。



 フロア中央の看護士センターで手続して戻ると、ユリは廊下で看護士の杉浦ゆきと擦れ違った。彼女は外科病棟に勤務してる。妙だ・・・。宏治は無事なのか?

 ユリは病室へ走った。


 病室入口に教授が居たが、ベッドに宏治は居なかった。

 ユリの頭部から血が引いて顔が青ざめてゆく。

「父さん。宏治は?どこへ行ったの?」

「さっき僕は、トイレへ行くと言ったじゃないか。今、帰ったばかりだ・・・。

 くそっ!やられたな・・・。なぜだ?」

 教授が拳を握って歯を噛みしめている。

「宏治が、

『宏治のクローンは作れない。テロメアは対象を選ぶ。強制的な初期化はできない。配偶子のテロメアは好みの配偶子を選ぶ。そうしないとテロメラーゼを生成できない』

 と話したからだわ・・・。盗聴されてたんだ・・・」

 ユリは声を潜めて大隅教授に告げた。

「それで、拉致したんだな・・・」


 父の偽者が宏治を拉致した。手引したのは杉浦ゆきだ。他にも手を貸した者が居る。

 ユリの頭に血が昇った。怒りで興奮したユリは、病室に教授を残したまま看護士センターへ走った。

「患者の大隅宏治をどこへやったの?」

 ユリは看護士センターに向って大声で怒鳴った。

「先生が手続してる間に、外科病棟の看護士がオペ専用のエレベーターで連れてゆきましたよ。先生に頼まれたと言って」

 病棟から戻った若い看護士がそう言った。

 ユリは看護士センターの受話器を取って外科病棟へ連絡した。

「杉浦ゆきを出してっ!」

「彼女は昨日付けで退職しました」

 外科病棟の看護士の返事に、ユリは愕然と廊下に座りこんだ。いったい何が起こってる?


 その頃。

 特殊病棟の裏口に黒の大型ワゴンヴィークルが停止した。

「早く乗せてっ!」

 そう叫びながら、二人の女が急いで二台のストレッチャーを運んで来た。

 ワゴンから運転手と助手席の男が現れて、二台のストレッチャーをワゴンに乗せた。

 二人の女はストレッチャーの横に乗りこんだ。女の一人が男に命じた。

「よし、行けっ!」

 女の顔はユリと瓜二つ。もう一人は、かほりにそっくりだった。



 特殊病棟六階で、看護士センター正面レベーターのドアが開いた。

「ユリ!どうしたの?」

 廊下に座りこんだユリを見て、かほりが駆け寄った。

「監視されてる。宏治が誘拐された・・・」

 ユリはかほりの耳元で囁いた。

「先生は?」

 かほりがユリの耳に囁き返した。

「病室に居る・・・」

「先生の所へ行きましょ・・・」

 かほりに促されて、ユリは支えられるように病室へ歩いた。


 病室に誰も居なかった。誰かが入院していた様子もない。

「・・・先生はどこに居るの?」

 そんな馬鹿な。さっきまで父がここに居た。それ以前、宏治がこのベッドに居た。宏治が消えた後・・・。まさか?

 ユリは廊下へ飛び出した。

「ここに入院していた患者と家族は?」

 通りかかった看護士に訊いた。

「この一週間、誰も入院してませんよ。何か勘ちがいしてませんか?ここは七階ですよ」

 看護師の女は平然とそう言った。

「バカ言わないで。特殊病棟は六階までよ。私はこの病院の医者よ!」

 ユリは憤慨した。


「そう言われましても・・・。一度、確認してください」

 山本須美のネームプレートを付けた小太りの中年看護士は、丁寧にお辞儀して看護士センターのエレベーターへ歩いていった。


 妙だ・・・。

 ユリはかほりとともに看護士センターへ戻って、看護師に訊いた。

「この病棟は、先生が言うとおり、ここが最上で六階です。

 先ほどエレベーターに乗った看護士は、先生の御家族の見舞いに来た、外科病棟の新しい看護士だそうです。先生の知り合いではないんですか?」

 看護士センターの事務員が当然のよう言った。


 驚きと興奮で、一瞬にユリの鼓動が速くなった。ユリは自分をおちつかせた。

「外科病棟に、山本須美なんて看護士はいないわ。

 処分されるのを覚悟しておけ!」

「ええっ?」

 事務員はようやく患者を誘拐されたと気づいた。


「アンタの失態で、患者を拉致された!この責任は取ってもらうぞ!」

 ユリは看護士センターの事務員と詰めている看護師を怒鳴りつけた。

 驚く看護士をそのままに、ユリはかほりを見た。

 顔のソバカスもシミも皺も、全てが母のかほりだ。偽者ではない。

「母さん。帰ろう・・・」

 ユリは小声でかほりにそう言ってエレベーターへ歩いた。

 この病棟内は監視されてる。何も言えない・・・。

 かほりが壁の下りボタンを押した。

 エレベーターのドアが開いて、二人は無言で乗りこんだ。



 エレベーターが一階に着いた。二人は病棟を出た。

 ユリはかほりの腕を取って前を見たまま囁いた。

「最後に病室に居た父さんは偽者だわ。本物は私と一緒に宏治を見てた」

 ユリも前を見たまま囁く。

「拉致されたの?」

「父さんは私といっしょに、宏治が話す宏治の生体情報を聞いてた。

 なのに、最後に病室に居た父さんは、宏治の生体情報を知らなかった。

 あの時、気づくべきだった。

 私は父さんの偽者に、宏治の生体情報を話してしまった。

 これからどうしていいかわからない・・・」

 ユリは涙ぐみながら、かほりの肩に頭を乗せた。大怪我で死んだ宏治が再生して復活した。その宏治を拉致されただけでなく、父も拉致された。全て私のせいだ・・・。


「先生も宏治も、何か対策を考えてたはずよ。

 急いで家へ帰りましょう。

 仕事は?」

 かほりも動揺しているが、二人して動揺していては対応のしようがない。かほりは気を奮い立たせてユリを励ました。

「明日まで宏治の担当だったの」

 ユリは嗚咽しながら囁いた。

「わかったわ」

 二人は大学病院の構内を出た。



 その頃。

 帝都空港税関のセキュリィティーゲートに、棺のような冷凍保存箱が運ばれた。

 係官は渡された書類と、冷凍保存箱に貼られた輸出許可証である連邦統合政府保健省優性保護局の移動許可証や、ステッキに絡んだ三匹の蛇のマークを確認して、冷凍保存箱を政府専用貨物のエリアへ通過させた。送り先はバンコクの優性保護財団である。



 大学がある中央地区から西地区の自宅へ戻って、かほりは家族の立体録画を再生し、ボリュームを上げて、ユリを大隅教授の部屋に呼んだ。


「ここはシールドされてる。特にこの部屋は厳重に。

 でも、一応調べるね」

 かほりは小型の監視波探査器を操作した。

「盗聴も監視もされてない。安心していいわ。でも、照明は点けないでね」

 かほりは微笑みながらユリに目配せした。悔やんでいても何もならない。今はできるだけ明るく振る舞って、より良い対策を講じなければならない・・・。


「父さんは、いつからこんなセキュリティーを?」

 ユリは監視対策に驚きを隠せない。私は父の事を何も知らなかったんだ・・・。

「先生と結婚した後だから、あなたが十三歳の時かな。

 結婚当初、先生は、あらゆる所で盗聴されて行動が監視されてると言ってたわ。

 勘違いしないでね。先生が特別にマークされてたんじゃないの。

 先生は、世の中の異常に気づいてたから、ここを監視や盗聴されないようシールドしたの。今日のような日が来るのを予想してたみたい・・・。

 ところで、あなた、生理は?」


「そういえば、今月はまだ・・・」

 ユリは思いだしたようにそう言った。

「やはりね。実は、私もなの」

「もしかして同時に?」

 ユリの中から動揺した感情が薄らいでいる。

「先生は上海から帰ってから、若返った感じだった。だから毎晩・・・」

 かほりは精力的な夫を思いだした。

「宏治もよ。

 宏治は、ホイヘンスの手の届かない所へ逃げろ、と言った。

 何としても二人を助けたい。二人は酷い扱いは受けないはずよ」

 ユリは断言した。動揺した感情がおちつきに変っている。


「なぜ?」

「ホイヘンスは、父さんと宏治の配偶子を他の配偶子と結合させる気よ」

 ユリは冷静になっている。

「他の配偶子って、他の女の卵細胞?」

 かほりは、まさかそんな事はないだろうと思った。


「そうよ。思考記憶探査の逆をするの。父さんと宏治の記憶を読み取って手を加え、ふたりに戻す。すると夢を見るわ。

 夢の中で私たちに相手させて、精子を採取して人工授精する。強制的に採取するより、精子の状態が良いのよ」

「夢精ね。この子たちに異母兄弟が生まれるのかしら」

 かほりは下腹部に手を当てた。体外受精でも、他人と先生の間に子供ができるなんて許せない。かほりの手が震えている。


「そうなる前に二人を探そう。

 トーマスが、何かあれば修道士の大学に連絡してくれ、と言ったのは何だろう」

 ユリは、修道士の大学に何も思いあたらない。

「ちょっと待ってね。先生はこうなった時を考えてたはずよ」

 でも、私は先生から何も聞いてない。私は夫を知らない妻だった・・・。

 そう思いながら、かほりは本棚から十年前のファイルケースを取り出した。



 十年前。

 かほりが結婚して数年後、家族四人で旅行した。その時のパンフレットやメモ、旅行の様子を記録したメモリーチップがファイルケースに入っている。

 当時。かほりは二十九歳だった。五十九歳の大隅教授と十五歳のユリと十九歳の宏治とともに訪れたのは、トーマスが居るストックホルムと、彼が卒業したミュンヘン大学があるミュンヘンである。

 旅行は、教授とかほりとの数年遅れの新婚旅行と、若くしてストックホルム大学の分子生物学の教授に就任した親しい友人、二十七歳のトーマスに家族を紹介することを兼ねていた。

 かほりは、教授がかほりとユリと宏治を気遣っているのがよくわかった。それだけで旅行にでた価値は充分だった。


 家族四人がストックホルムに数日滞在した後、トーマスは、ミュンヘン大学の政治学の教授に就任したヨンハン・チャンを紹介したいと言った。トーマスはミュンヘン大学でヨンハン・チャンと同期で、学生時代から信頼し合う間柄だった。


 ミュンヘンのホテルに到着すると、トーマスはヨンハン・チャンを紹介した。

 ヨンハン・チャンは大隅教授たちに挨拶して、

「ヨンハン・チャンです。正式な呼方はチャン・ヨンハン。もっと正確にはチャン・ジョンファンです。信頼できる人にしかこの名を教えません。

 トーマスの友人は僕の友人です。緊急の場合は、チャン・ジョンファンと言ってください。きっと力になれますよ。

 ミュンヘンは修道士のメンヒに由来した名称です」

 と笑顔で話したのである。



 今、思えば、先生とトーマスとチャン・ヨンハンは、何か予感していたのかも知れない。

 そう思いながら、かほりはユリの耳に囁いた。

「トーマスの言った事がわかったわ。よく聞いて。

 修道士はメンヒ。メンヒはミュンヘンの事。ミュンヘン大学の友人チャン・ヨンハンよ。でも、私たちが動けば拉致される。連絡もできないし、会いにも行けない。

 アジア連邦からユーロ連邦へ移動すれば、交通機関と施設の監視システムから、私たちの動きはホイヘンスに知れる。

 勤務先に無断で出かければ、私たちが失踪したと問題になる。先生も拉致されたが、大学へ何も連絡してない。

 いえ、そうじゃないわ。宏治は一度死んだけど、ユリは死亡診断書を書かなかった。二人は失踪した事になるんだ・・・」

 かほりは考えがまとまらなくなった。


「ホイヘンスは、テロメアが相手を選ぶと知ったのに、私たちを拉致しなかった。

 なぜだろう?」

 ユリはしばらく考えて拉致されなかった理由がわかった。ユリはかほりの耳元で説明した。

「トーマスに会うまで、私たちは自由のはずよ。

 ホイヘンスは今回の件で、トーマスとモーリン・アネルセンの考えを知りたいから、私たちを二人に会わせようとしてる。そして、父さんと宏治の拉致が公になったら困るから、ホイヘンスは私たち四人の偽者を用意するはず・・・」

「わかった・・・」

 そう言ったとたん、かほりの緊張の糸が切れた。膝から力が抜けて、かほりはユリを抱きしめて震えた。


「絶対に生きてるから、心配ないよ。母さん。

 それに、私たちは絶対に殺されない。殺すはずがない。

 なぜって、最良の配偶子を持ってるから」

 ユリはかほりをそう励ました。

「そうね。チャン・ヨンハンに会いに行く準備する・・・」

 かほりが涙を拭った。

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