十 遺体

 二〇五六年、八月十四日、月曜、十八時。

 帝都中央地区、学術研究区域、帝都大理学部古生物学科。


「ユリの仕事が終えたら、いっしょに帰ろうか?その方が安全だよ」

 宏治は一人でエレベーターを待ちながら、スカウター型携帯端末で話している。

「少し遅くなるけど、いい?」

「ああいいよ・・・」

「今、どこに居るの?」


「研究室の二階下に居る。エレベーターが来なかったんで、歩いて十八階に来た。エレベーターの前だ・・・」

 宏治は背後から近づく気配に気づいた。

 振り向いた瞬間、男が宏治の腰に回し蹴りを入れた。手にはペン型注射器がある。

「なんだっ、こいつっ!」

 宏治は一瞬、身を引いて蹴りをかわした。

「宏治?どうしたの?宏治!」

「襲われてるっ!こいつがっ!」


 二度目の回し蹴りが宏治を襲った。

「くそっ!何するっ?」

 宏治は男の脚にショルダーバッグを叩きつけて、二度目の蹴りを払い除けた。

 その時、エレベーターのチャイムが鳴って、ドアが開いた。


 男が、また、宏治に回し蹴りを入れた。

 宏治はバッグを叩きつけて防ごうとしたが、バッグのベルトが男の足に絡んで、蹴りが宏治の腹に入った。

「うっ!」

 宏治は開いたエレベータードアの内部へ蹴り飛ばされた。男もベルトに足を引かれて内部へ入った。

 だが、エレベーターは正規の位置に停止していない。

「うわっ!」


「宏治!どうしたのっ?」


 宏治はエレベーターの上部外枠をよろめいてエレベーターの外枠を越えた。

 ベルトに足を引っぱられた男は、かろうじてエレベーターの外枠とガイドレールにしがみついた。

「アアッー」

 宏治は男の足に絡んだバッグのベルトを掴んだままエレベーターの外枠から宙吊りになった。

 男は左手でエレベーターの外枠を掴んだまま、右手でジャケットのポケットから

葉巻切りに似た物を取り出した。

「ホイヘンス総裁の指示だ。俺を恨むなよ・・・」

「何する!やめろ!ウワッー」

 男が宏治の右手小指の先を切り取った。

「ウワッッッッ・・・」

「どうしたの?宏治!」

「小指をっ!切り取られたっ!エレベーターシャフトの中へ落とされるっ・・・・」

 男は自分の足に絡んだバッグのベルトを切った。


「ウワッー」

 宏治は叫びながら、エレベーター外枠下部にしがみついた。だが、小指を切り取られて、右手に力が入らない。外枠を掴んだ左手が外れて、宏治はもんどりうってシャフト側壁へ向って落下し、エレベーターのガイドレールを支える鉄骨と側壁の間に凄まじい音をたてて挟まった。


「宏治!宏治!」

「・・・・」

 見上げるとシャフトに射しこむ照明が消えてゆき、十八階のドアが閉じた。

「エレベーターシャフトの中だ。指を切り取られた・・・。数階下に落とされた・・・。

 鉄骨と壁の間に挟まって動けない・・・。エレベーターを止めてくれ・・・」

「すぐ、病院の救急隊を行かせる!」

「よく聞け・・・。病院の奴らは信用するな。僕を襲った男は病院のペン型注射器を持ってた・・・。父さんに連絡して、理学部の管理部にエレベーターを止めさせろ・・・・。十三階辺りのドアを開けて、ユリと父さんで僕をここから、出してくれ・・・」


「わかった。怪我は酷いの?」

「・・・酷いが、まだ、死にそうにないよ。はははっ・・・」

 左脚と左腕が原形を留めていない。酷い痛みだ。大量に出血してる。生きているのが不思議だが、死ぬ気はしない。ちょっとくらい冬眠しても・・・・。

 いったい僕は何を考えてるんだ。冬眠なんかするはずないのに・・・。


「すぐ行くからね。携帯はこのままにしててね・・・・」

 スカウター型携帯端末から、ユリが大隅教授に連絡するのが聞こえる。

「宏治?宏治?」

「ああ、連絡がついたのは聞こえたよ・・・。疲れた。眠いんだ・・・」

 各階のドアの隙間から漏れる光が揺れて見えた。

「眠ったらだめよ!絶対に眠られないで!」


「だいじょうぶだ・・・。

 蘇生するから、死んでも三日間は観察してくれ。必ずだぞ・・・」

「何を言うの!しっかり、目を開けてなさい!」

「・・・」

 宏治の視界と意識が薄れ始めた。

 眠い・・・。限界だ・・・。

 後を追って、説明できない強い衝撃が現れた。

 誰だ?僕に何をしてる?

 切り取られた小指の痛みが消えて身体の痛みも消えた。

「宏治!宏治!」

「・・・」



 二十時。

 帝都中央地区、学術研究区域、帝都大学付属病院。

 宏治は、十三階のエレベーターシャフトの壁と鉄骨の間から発見された。全身を打撲し、左脚と左腕を複雑骨折して大腿部と上腕部の筋肉と動脈を破損し、出血多量のショック状態だった。ただちに宏治は帝都大学付属病院に収容された。


 二十一時。

 宏治の心肺が停止した。

「先生。検死して、死亡診断書を書いてください・・・」

 救急処置室の看護士がユリにタブレットを渡そうとした。


「待って・・・。生体反応が消えてない・・・」

 生命維持装置のインジケーターがグリーンだ。組織細胞はまだ生きている。ユリはタブレットを突き返した。

 ストレッチャーに乗せられた宏治の顔は穏やかだ。ユリは宏治の右手に触れた。ユリの頭の中は真っ白で、宏治の手を握る自分の手が他人の手のように見える。今は何も考えられない。宏治を亡くした悲しみは、これから徐々に迫ってくるのか・・・。


「奴らは何をしたんだ?」

 大隅教授が呟いた。

「許せない・・・」

 かほりは拳を握りしめた。


「大隅先生!患者の容態が急変しました!」

 インターホンがユリに告げた。

「手が離せないから、木村先生に連絡して・・・」

「わかりました。

 木村先生、患者の容態が急変しました。大隅先生は手が離せないので・・・。

 ちょうど一年です・・・」

 インターホンから看護師の説明が聞こえた。


 心臓移植から一年が過ぎて患者の経過は順調だった。昨日から三日間の検査入院してる患者は、毎朝、軽いジョギングをしています、と話していた。

 一年前。交通事故で一人の患者が脳死になった。優性保護財団と脳死患者の遺族の計らいで心臓は他の患者に移植されて生かされた。優性保護財団にとっては脳死患者の心臓が高額商品として活かされた結果だった。


 宏治は、右手の小指を切り取られた、と言ったが、指はある。蘇生するから死んでも三日間は観察してくれと言った。今、宏治の組織細胞は生きている。宏治は死んでいない。

 ユリは、ローラから浴びたエネルギー波が宏治に何かを与えたと思った。

「父さん、私に考えがある」

 ユリは救急処置室の受話器を取った。


「大隅です。緊急患者が心肺停止状態になりましたが、生体反応が消えません。私が責任を持ちますから、三日間、患者として病棟に収容してください・・・。

 そうです。責任は私が持ちます・・・。患者は私の夫です!父も母もここに居ます。問題ありませんっ・・・」

 ユリは電話の向こう決り文句を繰り返す担当の上司に腹がたった。ユリはその男を怒鳴りつけた。

「責任は私が持つと言ってるだろう!何度言えばわかるんだ!

 検死は私がする!絶対に他人を、私の夫に近づけるなっ!

 ・・・・私がすると言ってるだろうっ!何度も言わせるな!

 ・・・ええ、そうです・・・。

 七十二時間、私が担当します・・・。

 ありがとうございます。特殊病棟の六階ですね・・・。

 本当に、ありがとうございます・・・」

 受話器を置きながらユリは涙を拭った。

 宏治は七十二時間だけ、帝都大学付属病院特殊病棟の患者として収容される事になった。担当医はユリ。三日間、宏治を担当する。

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