九 偽者

 二〇五六年、八月十日、木曜。

 帝都西地区居住区域、大隅教授宅。


 夜。ベッドに入った宏治はユリを抱き寄せた。洗いざらしの綿のパジャマから陽射しの匂いと湯あがりのユリの匂いがする。

 ユリの腕が宏治の首に絡んだ。パジャマの下は白のタンクトップ。

 ユリの唇に唇を触れて、手をタンクトップの中へ。胸をそっと撫でるように触れて、手をパジャマの上から、腰と尻へ滑らせる。滑らかな肌だ。

 ユリの左腕が宏治に絡む。右手は宏治の背を滑ってゆっくり撫でている。

 宏治は唇を触れたまま、手をパジャマの中へ進めて、尻から下腹部へ撫でてゆく。

 ユリの唇が離れ、

「ぁぁ・・・」

 小さな吐息が漏れる。

 宏治の愛撫に、

「ね・・」

 ユリが催促している。

 小さな肩と柔らかで張りのある肌。括れた腰とちょっと大きめの尻と太股。この小柄で素晴しい身体は完璧にユリに近い。一部を除いて・・・。


 ユリはプラス思考で楽天的な性格だ。ちゃめっ気たっぷりの大きな目をした童顔で、鼻筋が通った鼻はちょっと上を向いて形の良い唇をしている。着痩せするタイプだ。小さな肩と小振りで張りのある胸。括れた腰とちょっと大きめの尻と太股は衣類の上から想像できない。

 ユリは宏治にとって理想と言える性格と容姿だ。いや、ユリといっしょになってから理想の配偶者がユリだと気づいたのかも

 こんなユリだが、幼児期は腕白で傷が絶えなかった。骨格はその犠牲で、右の鎖骨は骨折の跡があり、左の肋骨は下から三本が脇腹から押されて腹部へ十ミリほど押し出されたように変形している。そして各所に、よく見なければわからない傷痕がたくさんある。


 だが、宏治が愛撫しているこのユリの骨格に、怪我や変形の痕跡はない。完璧なのだ。

 この女は優性保護財団の回し者だ!いったいどうする?このまま続ければ、この女に生体サンプルを採られる。やめれば、ユリの偽者に気づいた事がわかってしまう。本者のユリが捕われていれば、ユリの行方を知れなくなる可能性がある・・・。


「ねぇ・・・」

 ユリが宏治のパジャマと下着を脱いでせがむ。

「うん・・」

 宏治はパジャマを脱いだ。


 一時間ほど後。

「宏治、好きよ・・・」

 余韻を楽しむようにユリは何度も宏治の唇に唇を触れている。腕を宏治の背にまわして抱きしめたまま宏治を放そうとしない。

「僕もだ」

「このまま、眠りたい」

「重くないか?」

 宏治はユリの上にいる。両肘で体重を支えているから、全ての重みがユリの上にあるのではないが、下腹部は重みのほとんどがユリの上にある。

「こうしているのが幸せなの。あなたを感じられて・・・。まだでしょう?あなたも、いって・・・」

 背にまわっているユリの手が、宏治の腰から尻をゆっくり撫でている。ユリの中にある宏治を、ユリが少しずつ締めつけている。もう一度、誘うために・・・。



 翌朝。

 ユリは朝食をすませて、いつものように家を出ていった。

 大学が夏休みになって以来、宏治とユリの勤務時間帯が合わなくなっている。

 さらに最近、盗聴や盗撮をされている気がして研究室でローラについて語りづらくなった。早く帰宅して専用のパソコンで調べるしかない。その事は義父の大隅教授も感じている。



 十八時。

 宏治が帰宅してまもなくユリが帰宅した。

「夜勤は疲れるわ・・・」

「お帰り」

 宏治はユリを抱きしめて額の生え際を見た。小指の先くらいの傷跡が化粧に隠れてやっと識別できる。

「どうしたの?」

「昨夜、ユリがここに居た。偽者だ。今朝、いつものように出ていった・・・」

 宏治はユリの耳元で囁いた。 

 宏治の態度に気づいて、ユリも宏治の耳に囁き返す。

「昨日、夜勤で帰れないと話したはずよ・・・」

「いつもの時間に帰ってきて、予定が変ったと言った。疑いもしなかった・・・」


「でっ?ベッドでどうしたの?」

「いつものように愛し合って、君じゃないのに気づいた」

「で、どこまでしたの?」

「女は達して、僕は途中までだった・・・」

「そう・・・」

 私の偽者が宏治の精子を採取に来たんだ。健康体でなければ精子のサンプルを採取できない。宏治がウィルスに感染する心配はないけど、偽者と気づかないなんて、なんて間抜けなの!宏治はバカよ!ホントにバカ!大バカ!

 ユリは宏治の胸を拳で何度も叩きたい心境だ。

 でも、私に宏治の偽者が現れたら、入れても気づかないかも知れない。もし、偽者が・・・。

「まあ、しかたないね・・・。服は何を着てた?」


「これと同じスーツ」

 ユリを抱き締めたまま、宏治はユリが着ている紺の麻のスーツの背を撫でた。

「父さんたちに話したの?」

 耳元で囁いたユリが顔を動かして宏治の目を見つめて、唇に唇を触れた。

 宏治が囁く。

「話してない。ユリが帰ったら、父さんたが本人か確認してもらおうと思って」

「偽者は何に着がえた?」

「帰ってすぐに風呂に入って、その後はいつものパジャマだった。ほらその・・・」

 宏治はベッドを示した。置いたはずの生成りの綿のパジャマが無い。


「ちょっと待ってて・・・」

 ユリは宏治から離れた。

「母さんっ!あたしが出した昨日の洗濯物は?」

 ユリは部屋から出ていった。階下の母に話している。

「昨日は、あなたは洗濯物を出さなかったわ。宏治のといっしょに洗うと言って・・・。

 どうかした?」

「ううん。ピアスが片方ないの。どこへ行ったか探してるんだ・・・」

「なら、私も注意するわね」

「ありがとう。母さん」

 ユリは急いで二階へ戻った。


「宏治、愛してる・・・」

 ユリは宏治を抱き締めて、耳に唇を触れて言う。

「母さんは偽者よ。話し方が違う。それに額の皺が無いの・・・。

 あの偽者、いつから居るの?父さんは?」

「研究室を出る時はいっしょだった。母さんを迎えに行くと言ってた。

 母さんが下に居たんで、二人とも帰ってきたと思ってた」


 玄関のドアチャイムが鳴った。同時に裏口の閉じる音がした。

「二人とも帰ってるの?」

「母さんだ!」

「偽者はどうした?」

 二人は階下へ駆け下りた。


「下に誰が居たのか?」と大隅教授。

「母さんの偽者よっ」

「私たちも偽者かもユリ、父さんと私を調べなさい」とかほり。

「顔を見ただけでわかるよ」

 ユリはかほりと教授の顔をじっと見た。皺やホクロ、シミ、ソバカス、傷跡の全てが、ユリの記憶にある二人と一致している。

「間違いなく本物だよ」

「よかった」

 かほりが溜息をついている。

 

「ホイヘンスが、生体サンプルを採取するため、偽者を送りこんだ。

 明らかに、ホイヘンスはラビシャンからローラのエネルギー波を聞いてる。

 他所でサンプル採取されぬように注意しないといけない」

 と教授は。

「宏治だけじゃないわ。あなたも光を浴びたのよ。先生」

 かほりにとって、夫になっても教授は先生である。

 

「そうよ。父さん。

 でも、他所でどうやって生体サンプルを?」

「生きた体組織を扱うところに奴らの手がまわる。病院、歯科医院、それに、かほりとユリの偽者を使うかも」

「病院関係は私が手を打つわ。

 でも、私たちの偽者には、父さんと宏治がしっかりしてもらわないといけないわ」

 ユリは皮肉っぽく二人を見ている。

「奴らが宏治と私のクローンを造って、宏治と私を偽者にすり換えるかも知れない」

 大隅教授の言葉にかほりが驚いている。

「そんな事できるの?違法でしょう?」

「公表されてないが、優性保護財団の技術は進んでる。クローンを造れる。

 ここに居た偽物もクローンだ」と教授。


「それなら、皆で互いの特徴を確認した方がいいわ。傷や皮膚の変化など、後天的変化はクローン化できないわ」とかほり。

「ここで脱ぐの?」

 ユリが顔を赤らめた。ユリは二十五歳、宏治は二十九歳。母のかほりは三十九歳、教授は六十九歳である。

「夫婦で身体の特徴を確認して互いに知らせ合うの。今、話す事があれば話してもいいわよ」とかほり。

「わかったわ」

 ユリは安堵した。この歳になれば身内でも裸体を晒すのは気がひける。

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