十七 入院
二〇二八年、五月十八日、木曜、朝。
R市のR市総合病院で高田浩介医師は点滴中の省吾を診察した。
「昨日の夕方会って、昨夜入院は、田村とは縁があるな」
「舌をだして・・・、はい、もういいよ。眼だけ動かして上を見て・・・」
「異常があるか?」
ベッドから高田の天然パーマを見あげた。急患のため、省吾は個室に入院している。
「いや、ない・・・」
高田は省吾の首筋に指を触れてリンパ節を触診した。
「保健所は昨夜、上武デパートの協力を得て、公にならぬように、ビュッフェの食品検査をした。 牡蠣フライには貝毒はなかった。細菌もいなかった。
胸と腹を見せてくれ・・・」
高田は胸部と腹部に聴診器を当てた。
「従って、田村の検査結果は昨夜のままだ。牡蠣蛋白質のアレルギーだ」
高田の気配が変った。聴診器を見たまま表情を変えずにいう。
「心拍数が少ない。血圧が低いな・・・。心拍と血圧はいつもこんなか?」
「陸上をやって以来、こんな調子だ。健康診断の時は、いつもそう話してる」
「それなら、心配ないか・・・。頼みがあるんだ・・・」
高田が耳から聴診器を外した。少し垂れた三白眼的な目に緊張が現れている。
「何をすればいい?」
省吾は下着をもどして、パジャマのボタンを留めた。
「多元宇宙論や平行宇宙論を知ってるか?」
高田は聴診器の先を白衣の胸ポケットに入れた。高田から、僕は平行時空間を移動したのかもしれない、と思考が伝わって来た。省吾はいった。
「理論は知らないが、平行宇宙は存在すると思う」
「二つの平行時空間があって、それらに存在する人物の意識が入れ代った場合、その人物はどう行動すべきだろう?Aの時空間にいた年上のaの意識が、Bの時空間の若いbの意識と入れ代った場合だ」
困惑したように高田は省吾を見ている。
「俺なら、Aの体験を元に、Bでbのまま生きる」
平行時空間Bの住人は、平行時空間Aの住人aの意識が、Bの住人bの意識と入れ代ったなんて気づいていない。だからaの意識はAの体験を記憶したまま、Bの新たなbの意識として、若かりし過去から人生を生きるべきだ。
「Aに移動したbの意識はどうなる?Aに残したaの肉体はbより年上だ。なのに、入れ代ったbの意識の方が若いんだぞ」
高田は眉間に皺を寄せて目を細め、頭痛に耐えるような顔で省吾を見て、平行時空間の誰かが自分の犠牲になったはずだ、と気にしている。
「それは高田先生の仮定による結論だ」
「というと?」
高田の緊張が消えて疑問のまなざしになった。省吾は理恵の説明を省吾なりに解釈して説明した。
「aの意識と同バージョンのbの意識が、Aへ移動したとは限らない。三つの移動現象が考えられる。Bの時空間がここだとしよう。bの意識は・・・」
時空間転移体bの意識は現在の記憶のまま、未来のおそらく進歩しているであろう他の時空間へ移動したか、現在のこの時空間の記憶のまま過去の他時空間へ移動したか、あるいは、この時空間と同程度に発達している他時空間へ移動したかだ。
「だが、Aのaの意識が、未来の時空間Aから過去の時空間Bへ移動したら、Bにおけるaの意識と同バージョンのbの意識も、Bより過去の時空間へ移動した可能性が高い。平行宇宙の二つの時空間だけに特異現象が生じて、他の平行時空間に異変が無いのはあり得ないからだ。
だから、全てで同様な現象が生ずる。aの意識がAからBへ、aの意識の同バージョンのbの意識がBからCへ、同様に、cの意識がCからDへ、dの意識がDからEへ、ドミノ倒しのように、平行時空間から平行時空間へ転移が進むにつれ、現象変化が緩慢になり、転移にともなう時空間の変化は0へ収束して、各時空間の同バージョンであるそれぞれの時空間転移意識の変化も0へ収束する」
「aの意識はbの意識やcの意識を心配しなくていいのか?」
まだ、高田は気にしている。
「異なる平行時空間にいるaの意識が、bの意識を心配しても、bの意識はわからない。異なる平行時空間からは何もできない。安全と幸福を祈るだけだ。俺ならそうする」
『これ以上話しちゃだめ!』と理恵。
『ええっ!俺の考えがわかるのか?家とこの病院は四キロくらい離れてるぞ!』
『まわりに誰もいなくて、母みたいな邪魔が入らなければわかるみたいだよ』
『なら、助言を頼む』
『わかったわ』
「ありがとう。話して良かった。安心した」
高田は納得したらしかった。
「俺もだ」
省吾は過去に平行宇宙論を聞いていたが、深く考えた事はなかった。高田の疑問に答えて省吾は、高田が他の時空間から移動してきた時空間転移意識だと確信した。
『小田亮も時空間転移意識かもしれない。だが、ほんとうにそんな事があるだろうか?』
『あるよ。省ちゃんと私だけじゃないよ』
『わかった』
「さて、退院は月曜の夕方だ。明日、退院してもいいが、他にもアレルギーがあるようだから、この際いろいろ調べるよ」
言葉と同時に、高田の本音が伝わってくる。
「疲れが溜ってる。土曜まで点滴して日曜に様子を見て、結果が良ければ月曜に退院だ。それまで、何も考えずに休め。
明日、退院して日曜まで自宅療養しろといっても、田村は療養しないだろう。退院は月曜にしてもらうよ」
省吾を見る高田は笑顔だ。
高田の指摘どおり、最近、疲労を感じている。
「その点は、子供が生まれたら、理恵も俺と同じだ」
といおうとしたが思い留まった。
「他に調べてほしい事はないか?」
『床で頭を打ったから、頭を調べてもらうのよ・・・』と理恵。
「昨年、十一月十九日にソファーベッドから落ちて、リノリュームの床で頭を打った。それ以来、何か忘れてる気がするんだ」
「わかった。調べよう」
そういって高田は母を見た。
「では、そのようにしますから、よろしくお願いしますね。理恵さんを心配させたくありませんから、アレルギーの検査に時間がかかると説明してください」
高田は省吾と理恵が二人で家庭教師と英会話教材機器の販売営業をしていると聞いていた。省吾の母が、理恵に省吾の過労を伝える事で、省吾が理恵の仕事の責任を負っていると理恵に勘ぐられるのを避けるように配慮していた。
「わかりました。先生のいうとおりにします」
高田の思いを感じたらしく、母は丁寧におじぎした。
『母はこんなに控えめだったか?母は俺の考えがわかるのかも知れない』
『心配ないよ。精神空間思考がわかるのは私たちだけだよ』
『わかった』
省吾は理恵の精神空間思考にそう答えた。
「田村、編入学試験が免除になったが、大学院と家庭教師と英会話機器営業の三つをしてるんだ。子供も生まれるから、今のままだと疲労が溜る。二つにしたらどうだ?」
「何か手段を考えるよ」
省吾の言葉は本音だった。
「その方がいい。僕も時間がある限り休養してる・・・」
高田は何かを気にしている。過去に何かあったようだ。「どうかしたか?」と省吾が聞こうとしたら、高田が
「今日の回診は終了だ」
といった。
「ありがとうございました」
母はふたたび高田におじぎした。
「じゃあ、また明日。それではお大事に」
高田は母におじぎして病室をでながら省吾に背をむけたままに手を振った。
「母さん、理恵に連絡してくれないか?」
「わかったわ」
高田の気遣いを知っただけに、母は理恵に連絡しにくいらしい。何もいわずに病室からでていった。
『気にする事ないのに・・・』と理恵。
『機会を見て、沙織にそういっておくよ・・・』
『幸恵が来た・・・』
理恵から応答が消えた。沙織は省吾の母。理惠の母は幸恵だ。
省吾は天井を見た。点滴される右腕の冷たさで妙に頭が冴えている・・・。
土木建築工学科に編入学しても、家庭教師は続けなければならない。それが新垣さんと大槻さんへの誠意だ。
独立目的で始めた『横山・会話教材機器販売』だから、理恵の思いどおりに営業しなければならない。理恵が横山建設の経営に関わる時が来たら、その時『横山・会話教材機器販売』の行く末を決めればいい。全て理恵の意思で決まる。
省吾は理恵の応答を待ちながら、窓の外、北西の稜線上空を移動するブルーグレーの偵察艦を眺めた。
稜線上空を移動している偵察艦が停止した。進路を変えて、いっきにこちらに飛行してきた。一瞬に、病室の窓から見える周辺一帯で太陽が陰った。
真上に偵察艦がいる!とてつもなく巨大だ!なぜ誰も騒がない?病院内の誰も気づかないのか?
省吾はベッドから起きようとした。
全身を何かが包んでいる。起き上がれない・・・。くそっ!何をする気だ?俺を探ってるのか・・・。
数秒後。省吾の全身に爽快感があふれた。
身体が軽い!戸外の陰りが消えた。偵察艦は俺に何をした?
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