十五 おめでたですね

 二〇二八年、五月十七日、水曜。

 所属研究室の本田教授と事務官に事情を連絡し、授業と実験を欠席して、R市のR市総合病院総合病院へ行った。

 総合受付と会計の待合室を兼ねたホールで手続きして、産婦人科へ移動した。各科と病棟入口がホールを囲むように配置されている。ホールの突き当り右、伝染性疾患外来から最も遠ざかる位置に産婦人科がある。

 産婦人科外来受付をすませて、理恵は母たちに囲まれて産婦人科の待合室の椅子に座り、問診表に記入している。

 各科待合室は、各科外来の隣にコンテナーを付けたような空間だ。産婦人科外来も例外ではなく受付と待合室の入口がホールに面している。待合室とホールを区切るドアは無い。


「田村くんよね?」

 ホール中央から産婦人科の左へ歩く女性看護師が、ホール側の椅子に座っている省吾に声をかけた。省吾は驚いた。薄茶の髪のポニーテール。鼻筋通った薄茶の目。理恵より背が低く、少し太り気味ではあるが均整のとれた体型の小田京子だった。

「ごぶさた・・・」

 省吾は理恵を不安にさせぬよう、驚きを表さずに会釈した。

 小田京子の胸に、高田京子、のネームプレートがある。


 省吾の視線に気づき、

「去年の三月、大学病院勤務の高田浩介さんといっしょになったの。学生寮でいっしょだったでしょう。あの高田さん。そしたら主人が、今年四月に、ここの内科勤務になって、私もも外科に転勤したの・・・」

 旧姓小田の高田京子がはにかむようにいった。待合室を見て、

「田村くんは、家族の方がおめでた?」

 母たちと話す理恵に視線を留めた。理恵より若い女はいない。

「去年の十一月に結婚したんだ。紹介する。三分くらいいいだろう?」

 省吾は京子を理恵の前に連れていった。

「理恵、紹介するよ。高田京子さんだ。

 以前話した大学病院に勤務してた小田京子さん。去年結婚して高田さんになって、ここの外科に勤務になったそうだ・・・。

 高田さん。こちらが妻の理惠。そして理惠の母と俺の母」

 省吾は理恵に京子を紹介して、京子に理恵と母たちを紹介した。


「看護科の時、田村くんに助けてもらったんです。

 失恋した時、田村くんがいたので救われました。優しいから・・・」

 京子は理恵と母たちにほほえんだ。

「今度は私がお役にたつ番ね」

 京子はメモに住所と電話番号を書いて理恵に渡し、理恵の耳元で、

「私にわかることがあればお答えします。

 時間がある時、連絡してね。田村君の事じゃないわよ。医療的な事。一般的には職務違反だけど、友だちに助言するだけなら、だいじょぶ。それから・・・」

 理恵だけに聞こえるように囁いた。


「えっ?ほんとなの?」

「ええ、ほんとよ」

 驚く理恵に京子はほほえんでいる。

「わかった。うれしいなあ」

 理恵は、初めて会ったと思えない笑顔を京子に見せている。

「気にしなくていいわ。京子って呼んでね。今度は私が役に立つ番よ」

 京子は母たちに丁寧におじぎして、

「少し田村くんに話があります・・・」

 理恵が心配しないように、省吾を理恵のそばへ引っぱり、

「連絡しなくてごめんね。全て私がいけなかった。私が高田さんと結婚できたのは、あなたのおかげよ」

 理恵に話すようにいった。

「何の事?」

 京子が何をいいたいか理解できたが、省吾は聞きかえした。


 京子は省吾が理恵に説明したように、小田京子だった当時の彼女と省吾の不思議な関係と、彼女の引っ越しに絡んだ母親との一件を説明してうつむいた。

「引越しが原因で疎遠になって・・・」

 京子の中に、省吾との関係をつづけたかった思いが膨らんでいる。

「疎遠になったおかげで、大学院の入試勉強ができて修士課程に入学できた。理恵ともいっしょになれた。だけど、縁があるから、また高田さんに会えた。

 今度は理恵を頼む・・・」

 省吾は、京子から理恵に、省吾の記憶にない省吾の過去を語らせたくなかった。理恵に問われても記憶していない過去を、どう説明してよいかわからない。しかし、説明できないのは、それだけでない気がする・・・。


「わかったわ・・・。

 理恵さん、またね。お母様たち、失礼します。

 田村くん、理恵さんを通じて連絡してね・・・」

 京子はあいさつしてその場を去ろうとしたが、何かを思いだして立ち止った。


「田村くん、今日の夕方、時間はある?理恵さんとお母様たちといっしょに食事したいの。

 田村くんは主人を知ってるけど、皆さん、主人を知らないでしょから、主人を紹介するわ。弟たちも呼んで・・・」

 京子は思いをそのまま話している。違和感は感じられない。


「理恵の体調しだいだね」

 京子に弟がいるのは聞いていたが、弟と会った事は無いと記憶している。弟たちが誰か見当もつかない。

「私はだいじょうぶよ。お母さんたちも時間はいいよね?」

 理恵は京子を知りたがっている。

「えっ?ああ、もちろんよ。省吾さんのお友だちなら、会いたいわ」

 理恵の母幸恵が、省吾の母沙織に同意を求めている。

「そうね。こんな機会はないからね」

 省吾の母も同意している。


「わかった。どこで会える?」

 省吾は京子を見た。

「上武デパートのラウンジ、ビュッフェを六時に予約しておくね」

 京子は理恵と省吾にいう。

「はい」

 理恵が答える。

「じゃ、またね」

 京子は去っていった。



「おめでたですね。健康状態は良好です」

 診察を終え、四十代と思える女医が理恵にいった。

「妊娠届を作成します。住民登録はこちらですね?」

「はい、そうです」と理恵。

「妊娠届は市役所別館の健康センターへ提出して、母子健康手帳、妊婦健康診査受診票等を受けとってください。母子健康手帳は代理人でももらえます。健康センターで、妊娠から出産までの指導を受けられます・・・。妊婦検診は、ここ総合病院でする事になるでしょう」

 女医は手際よく書類を書いて産婦人科の外来事務員に、妊娠届を作成するよう指示した。


 妊娠届には妊婦の名前や住所、妊娠週数または月数、出産予定日、診断を受けた医療機関名等を書く欄がある。本人や代理人が届出機関の窓口で、直接、妊娠届を作成して手続きする場合、各項目をわかるようにしておかねばならない。本人にしろ代理人にしろ、提出に行く場合、身分証は忘れずに持ってゆかねばならない。



 看護師が、妊娠から出産までの心得を書いた冊子を、理恵に手渡した。 

「妊娠中の注意事項が書いてあります。細部にわたって口頭で説明するのは大変ですから、日常の注意を説明しておきます。その他は読んでください」

 女医は冊子を示している。

「はい」

 理恵と省吾は同時に答えた。理恵は省吾の手を握っている。

「酒、タバコ、アレルギーを引き起す食品、法定外の薬物は厳禁です。田村さんはアレルギーはありませんでしたね?」

 理恵の仕草に女医がほほえんでいる。

「はい」

「刺激の強い物、市販の薬の服用も厳禁です。

 風邪を引いたり、体調に異変があったら、すぐ産婦人科を受診してください。

 薬の服用は、全て産婦人科医に相談してください。

 日常生活はこれまでのままでかまいません。

 塩分は控えめにして、軽い運動を欠かさないでください。

 心身ともに衝撃を与えないでください」

 女医は確認するように理恵と省吾を見た。

「はい」


「夜の営みは優しくゆっくりですよ。激しいのはいけません。お腹を圧迫しないようにしてください。特に妊娠後期は圧迫しないように。妊婦検診で説明を受けるでしょう・・・」

 理恵は省吾の手を握ったまま、いつものように横にいる省吾に頭を持たれかけている。

「まあ、優しくされているようですから、まず心配いらないでしょう」

 女医は省吾を見てほほえんでいる。

「他に聞きたい事があれば、お答えしますよ」

「知人との会食など、外での食事で、注意する事はありますか?」と理恵。

「食べ物は先ほど注意したとおりです。外食品は濃い味付が多いですから、塩分を摂り過ぎないように注意してください。

 転倒や怪我もしないよう注意です・・・。

 可愛い奥さんを守ってあげるのよ」

 女医は省吾に目配せしている。

「それでは、妊娠届ができるまで待合室でお待ちください」

「ありがとうございました」

 礼を述べて診察室をでた。


 保健センターへ書類を提出して、午後、帰宅した。

 母たちは途中で買い求めた食材で昼食を作って、あれこれ理恵の世話をやいている。

 理恵は、世間の人たちが口うるさい親だと思うような母たちの言動を、うるさがらずに聞いて相槌を打っている。

 省吾は所属研究室の本田教授に結果を連絡して、本日は終日欠席する事と、病院で会った旧友や医師たちと夕刻会う旨を伝えた。

 病院の結果は家庭教師先と大家にも連絡した。

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