十四 ユリア・カルザス
二〇二五年、十二月十三日、土曜。
マルタ騎士団国マルタ神大学と神学校は土曜も授業がある。
大学から、朝鮮のミサイル発射に関する国際情勢について冷静に対処するよう要請があり、学内はいたって冷静な空気が流れていた。
十二時。
「ユリア・カルザス!」
午前の講義終了後、オイラーは、講義室を出ようとする女子学生を呼びとめた。
ユリアは黒髪で眼が大きく、均整がとれた体型で、オイラーよりやや小柄だ。他の女学生にない魅力があるとオイラーは思っている。目があえば会釈する程度の間柄で、二人だけで話したことはない。
「なに?」
ユリアは、ミケランジェロのダビデを長身にしたようなオイラーをふりかえった。
オイラーはユリアに、懐かしい人に会えたような安堵を感じ、奇妙な感覚に捕らわれた。
「訊きたいことがあるんだ」
「先に行ってて」
ユリアは仲間を先に食堂へ行かせ、
「朝鮮のミサイルのこと?」
茶色の眼で食いいるようにオイラーを見ている。
ユリアも未明の緊急放送を見ていたらしい・・・。
「いや、ちがうんだ。合衆国が国家統合会議に加盟した。ロシアはEUと東南アジア・オセアニア国家連邦に加盟するから、ミサイルはあれで終りだと思う・・・。
実はチャールズ・ダルトン教授の質問を思いだしたんだ。人類の進化についての」
「あのことね・・・」
オイラーを捕えている何かがユリアから消えた。
オイラーはユリアの感情変化にあわてた。
「ミサイルのこともくわしく知りたいけど、今は人類の進化について君の考えを知りたい。
君と僕たちの進化について・・・。君のことも・・・」
ユリアの眼を見つめ、感情変化を期待した。
「そうね・・・」
ふたたび、ユリアの放つ妙な感覚が増した。
「あの時、君はアポトーシスへむかってるといい、教授は遺伝子自体が進化の多様性を受け入れにくくなってるといった。
さらに教授は、将来的に変化が現れ、遺伝子に進化の多様性が現れるようなことを楽観的に説明した・・・」
オイラーは話しながら、ユリアの全身を包むように見て、気配を感じようとした。
「だが、現実はそうじゃないと思う。教授は、この楽観論はありえないと認めてるから、あえて楽観的に説明した・・・。
そう考えるのは無理だろうか?」
ユリアは暖かい雰囲気に包まれた。
なに、これ?
ユリアは、感じたものを気にしながら話した。
「現実は、遺伝子に進化の可能性が無くなりつつある深刻事態だと思うわ。私に、その証明はできないけどね・・・。
訊きたいことってそれだけ?」
オイラーの何かが私を包んでる。温かいコートに包まれてるみたいだ・・・。
「それだけじゃない。今回のミサイルをきっかけに、合衆国は国家統合会議に加盟する意向を示した。今後、国家連邦は、僕のレポートのように進むと思う・・・」
マルタ騎士団国が国家として認められた十月三十一日、学生全員が、ロードス総長からの課題、
『かつて国際連合は、我国を国連のオブザーバーとしか認めなかった。この場におよんで、なぜ、独立国家として認めたか、また、今後どうなるか』
についてレポートを提出している。
学生は、課題を課した教授へ、タブレットでレポートを送信する。教授の審査後、各自のレポートは、タブレットを通じて学内へ一般公開される。レポートとは名ばかりで実際は小論文の発表だ。
「現実はそうなってるから、今さら否定できないね」
ユリアはオイラーが話そうとする、その先が気になった。
「それで、なに?」
ショルダーバッグを胸へずらし、抱えていた本をバッグに入れて肩ベルトをかけなおし、バッグを腰へまわした。
「強大な軍事力が出現すれば、軍事力で世界を支配する時代は終るが、イスラム諸国の民主化は時間がかかる。武力で宗教や思想は変えられないからね・・・」
「なるほどね。それで、進化の多様性にたどり着くのね?」
オイラーも、私と同じ事を考えているらしい・・・。
一瞬、オイラーの表情が緩んだように見えた。オイラーの胃からかすかに空腹の音が響いた。
「人類の遺伝子に進化の多様性を与えるテクノロジーは、人類を支配する。この考えはまちがいと思うか?」
「まちがいじゃないけど、昼食が先ね。食堂へ行きましょう。食べながらでもいいでしょう?」
ユリアは十四階の食堂の方向へ目配せし、オイラーにほほえんだ。ここは十二階だ。
「ああ、いいよ」
オイラーはドアを押して、ユリアを講義室の外へ歩かせた。
ユリアは民族や宗教を考えていう。
「国家連邦が統合国家を創れば、確かに軍事力による大きな支配は減るわ。だけど小さな争いと支配はなくならないと思うわ」
「もし、為政者が政治と自分の命のどちらかを選ばなければならないなら・・・」
話しながら、オイラーはエレベーターホールへ歩こうとした。
「階段で行きましょう」
ユリアはたちどまり、オイラーにほほえんでいる。
「わかった」
オイラーはユリアとともに階段へ歩いた。
ユリアがいう。
「自分の命が絶えようとしている時、国家支配と長寿の、どちらかを叶えるといわれたら、たいてい長寿を選ぶはずよ。子孫を残せて生物として自然だから」
歩きながらオイラーが訊く。
「もし、その時、君が誰か相手を選ばなければならないなら、君は僕を選ぶか?」
このことを訊いてくると思ってた・・・。
「選択は一方の意志だけでは決まらない。互いの意志で決まるわ」
「僕は君を選ぶ。君は僕を選べ」
オイラーはユリアの手を握り、階段を登りはじめた。
「もう選んでる。今日、呼びとめられる前から」
ユリアはオイラーを見ずにそういった。
「僕を?」
オイラーはユリアを見た。
「私のダビデを・・・」
ユリアは階段を見たままだ。
「そうか・・・」
オイラーは握った手を離さなかった。
ユリアはオイラーの手を握りかえした。
ダビデといわれても、オイラーは嫌われている気がしなかった。そればかりか、オイラーにむけられるユリアの何かが、以前より増すのを感じた・・・。
ダビデは誰だ?まあいい。ユリアに相手がいるなど聞いていない・・・・。
階段を登り終えて廊下へ出た。食堂へ歩きながら、ユリアが訊く。
「午後の宗教史は?」
「出席するよ。久しぶりに、ミケーレが講義するんだ」
「まるで、ロードス総長が友だちみたいね」
ユリアが笑いながらいった。
「ああ、友だちさ・・・」
オイラーは食堂のドアを開いた。
食堂内にたちこめた料理の匂いと湿気が、外へ流れた。昼食に夢中で、誰も、ユリアの手を握りしめたオイラーに気づいていなかった。
十三時。
「十月三十一日から一ヶ月以上、国家統合会議と交渉してきた・・・。
近いうちに、国家統合会議と国際裁判所との一回目の交渉結果について、公式発表がある・・・。
その後、諸君にくわしいことを話す。現時点での質問はしないでほしい・・・」
八階の大教室の教壇に立ったミケーレ・ロードス総長は、学生に釘を刺した。
十五時。
「フランク、オイラー、ユリアは残ってくれたまえ」
宗教史の講義を終えると、ロードス総長は三人を呼んだ。
「フランクは私の所に来たまえ。オイラーとユリアはダルトン教授の所へ行きたまえ。何も心配いらない。今回のレポートについて、さらにくわしく説明してほしいだけだ」
三人は呆然としたまま、各教授の研究室へむかった。
十五時二十分。
チャールズ・ダルトン教授の研究室で、事務官が大テーブルに紅茶とクッキーを置いて退出した。
「気楽にしてくれたまえ」
ダルトン教授は、オイラーとユリアの向いの席に座り、申し訳なさそうに話した。
「実は、君たちに、再生医学を学んでほしい・・・。
そのため、基礎知識が必要だ。君たちに、意識思考探査、つまり、思考記憶探査と呼ばれるテクノロジーの逆処置を受けてもらいたい。短時間に大量の基礎知識とそれに関する記憶と意識を得てほしいのだ。承諾してくれるか?」
オイラーに、思考が現れた。
意識とは、自分の状況がはっきりわかる心の状態。
精神は、思考や感情の働きを司ると考えられる人間の心。
「処置の危険は?」
ユリアは疑わしげにダルトン教授を見た。
「現在まで皆無だ。
二十世紀末、意識思考探査とともに開発されたこのテクノロジーは、当初、短時間に大量の記憶を与えることから、被験者の自己意識崩壊と思考崩壊を招く、と研究者から敬遠された。
情報機関と軍事関係だけが、このテクノロジーを駆使し、多くの成果をあげると同時に、危険性がないのを証明した。
その後、テクノロジーは進歩したが、無意識領域の解明はいまだ完全ではない。このテクノロジーの使用を、被験者の意識が承諾しても、短時間の大量記憶は無意識領域が承諾しなければ、拷問にすぎない。
現在も、この記憶法は各方面で敬遠されている。学術機関で使用されてこなかったのはこのためだが・・・」
「前置きは結構です」
いらだちを抑え、オイラーはダルトン教授の言葉をさえぎった。
学識者と呼ばれる連中は、いつも、もったいぶった言い方ばかりする・・・。
「真の目的は何です?」
「我国は国家承認されたが、国土がない・・・。軍事力もない・・・」
ためらいがちに、ダルトン教授は説明する。
「今さら国土を得ても、EUに加盟して国家連邦を構成し、さらに、世界の国家連邦が、連邦統合国家に統合されれば、国家は単なる行政区でしかないのは明らかだ・・・。
だが、我ら国民の祖先が残した文明遺産は、マルタとロードスの地に残されたまま、他国民の所有物になっている。これは許しがたいことだ・・・・」
そこまで話してダルトン教授は口を閉ざした。
「それと、再生医学の関係は何?」
ユリアは鋭い視線を浴びせた。
「理由は国家のためだ・・・。
世界情勢は、ホイヘンス君のレポートのように進みつつある。
一国が世界情勢を左右する時代は終りを告げる。表向きは争いのない世界が到達するが、君たちが指摘したように、進化の多様性をなくした人類は、将来、不健康な有機組織を交換したいと願うようになる。つまり、健康な有機組織を得るための争いが始まると考えられる・・・」
ダルトン教授教授のまなざしが険しくなった。
「マルタ騎士団国の医療技術によって、政治に携わる者たちの遺伝情報と幹細胞を管理し、主導的立場にいる為政者の不健康な組織を、優先的に、我々の医療技術で健康な組織と交換する。
将来的に、我々が主要な政治関係者を管理し、政治担当者を医療面で支配する。政治に介入して国土を得、正式な国家を創る」
「本気でそんなことを考えてるのか?」
オイラーは思わずいった。
ダルトン教授の顔が歪んだ。
「そうだ」
「どうしてなの?」
ユリアは唇を噛みしめて思った。
明らかに、各国家連邦も国家統合会議も、国家間の隔たりをとり除いて地球を共同管理しようと考えてる。ロードス総長も国家統合会議でその事を話したはずだ。
国家連邦に加盟すれば各国が国と名のついた行政区だ。身分証明を示すだけで国家連邦内のどこへも行ける。
今さら国家を語るなんて馬鹿げてる。本当に得たいのは国土だけか?
もしかしたら・・・。
「我々の念願だ。国家連邦に加盟しようと、連邦統合国家になろうと、たとえ一行政区でも、国家としての国土を得たいだけだ」
教授はうつむいた。
「・・・」
オイラーは言葉をなくした。
今さら武力で国土を得られない。国も支配できない。だが、ユリアが話したように、為政者の命と引き換えなら、為政者を動かすのは可能かもしれない。動機は馬鹿げているが・・・、意義はある・・・。
オイラーはユリアの眼を見つめた。
ユリアはオイラーの思いを感じ、
『ダルトン教授は総長の指示どおりにしてるだけだわ。国土なんかより、為政者側に立つ方がおもしろいはずよ・・・』
自分の思いを伝えた。
オイラーはユリアの思いを感じた。
『ダルトン教授の申し出を承諾するか?』
『ええ、いいわ。しましょう』
「わかった。僕の家族はここの人たちだ。ここが僕の家だ。家族の期待に応えよう」
「私も承諾する。私もオイラーと同じで、ここが我が家。ここの修道士たちが家族だから」
幼い時に、イスラム過激派のテロによる旅客機事故で家族をなくし、二人に家族はいない。
驚いたように、ダルトン教授が顔をあげた。
「よろしい!大いに結構!くわしいことは新年になってからだ。一月十日正午、ここに来てくれたまえ。昼食を用意しておく」
一月十日はクリスマスと新年の休暇明けだ。
ダルトン教授は機嫌良く立ちあがった。オイラーとユリアにむかって手を差しだしている。
「一月十日の昼食後、新しい記憶と思考を得る作業を開始してもらう。期間は五ヶ月だ。
何も心配いらない。君たちはヘルメット型の脳波発生装置を装着したまま、映像を見てほしい。
脳波発生装置が、映像を見る君たちに、君たちと同じ脳波で情報を送るだけだ。人間が発生するのと同じ脳波だ。何も心配はない。
映像を見ている間に、君たちは大量の基礎知識と、それに関する記憶と意識を得ることになる」
ダルトン教授は笑みを浮かべている。
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