十三 離婚届

 二〇二五年、八月二十七日、水曜、理恵の休日。

 理恵が省吾と暮して一ヶ月が過ぎた。菅野から理恵たちと、省吾たちの離婚届が送られてきた。

 

 理恵が休日のこの日、八月二十七日水曜の朝。理恵と省吾は二枚の離婚届を市役所へ提出した。

「これで、本当に先生と暮せるんだぁ!」

 理恵は省吾に抱きついた。省吾と暮して以来、理恵は他人を気にしなくなった。ハイヒールを履くと省吾と同じ背丈の理恵が省吾に抱きつく姿は、役所の職員と来客の目を引いた。

 省吾は理恵の香りと熱さを感じながら、人目が気になって恥ずかしかった。

『私は気にしないぞ・・・』

 マリオンの声が省吾の意識に響いた。

 理恵と省吾の婚姻届を提出できるまで半年あった。省吾と菅野は弁護士を通じ、今後半年以内に理恵に子供ができた場合、省吾の子供と認める旨を書面にして残してあった。元妻にも同じ内容の書面が残してあった。そうでなければ気兼ねなく生活できない。


 理恵と省吾は帰宅した。

 省吾は仕事場の机の一番上の引き出しから、書類を出して机に拡げた。省吾が署名捺印した婚姻届だ。保証人は離婚届と同じ、出版社の木村と今井だ。

「あとは、理恵が署名して出せばいい」

「ありがとう!」

 理恵は署名捺印し、省吾に抱きついて喜んでいる。


 理恵には常に理恵の考えを予測して行動する俺がいる。理恵の身内は不仲な兄しかいない。俺は何があっても理恵を守る。時空間が存在するように、愛情は最初から存在してる。作るのでも芽生えるのでもない。維持するか、しないかだ。その事に理恵はまだ気づいてない・・・。

 理恵は元妻と違う。他人に自分を理解させる場合、自分が変わらなければならないのを知っている。歯科治療で指示どおりにしない患者や、指示どおりにできない患者には、理恵の意識が変わらなければ、患者が理恵の言い分を認めないからだ。歯科衛生の仕事をする以前、理恵はその事を知らなかった・・・。

 それなら、菅野とそのようにすれば、理恵は離婚しなくて済んだはずだが、現実は歯科医院の患者とは違う。一般患者は歯科衛生士を尊敬しなくても馬鹿にはしない。俺が最初に理恵を見下したようにもしない・・・。

 地方銀行員に過ぎない菅野はクラリックの影響で、銀行員の自分が特権階級だと思い上がっている。その事を自覚しないから始末が悪い。言葉丁寧に何でも威圧的だ。

 身近に菅野が三年も居れば、理恵は、菅野自身が気づかない菅野の言動を嫌でも感ずる。母親でなければ許せない事をずけずけ言われたら理恵は嫌になる。言った菅野はけろっと忘れている・・・。

 慣れは恐ろしい。妻だから貶しても許されると妥協が始まり、切りが無くなる。俺の元妻も際限なかった・・・。


「六ヶ月たったら提出するよ」

 省吾は理恵を抱きしめたまま、婚姻届を机の一番上の引き出しに入れた。重要物が入った部分で、非常時はそのまま取りだせるよう、引き出しは書類ケースなっている。

「ありがとう!うれしいな!」

 理恵は省吾に頬ずりした。理恵の熱さと芳しい香りが強まっている。

「さて・・・」

 省吾は理恵の頬に唇を触れた。

「食料品を買いに行こう。帰ったら、ふたりでゆっくり料理しよう」

「うん、いいよ」

 理恵は省吾を抱きしめて微笑んでいる。



 十一時前。

 省吾と理惠はエコヴィークルで郊外のK街道にあるショッピングモールへ向かった。積乱雲がいっきに空を埋め、雷鳴が響き始めている。


 車中で理恵は、日曜はクリニックの患者に出会うから、買い物は水曜が良いと言う。

 理恵のD歯科クリニックの勤務時間は九時から十七時まで。八時過ぎに出勤して十八時過ぎに帰宅する。帰宅途中で寄道しない。買い物がある時は省吾とともに全て水曜に行なう。一人で買い物するのが嫌なのではない。二人で居たいと言う。新婚同然なのだからと思っていたがそうでなかった。

 クリニックの理恵は大きなマスクをしている。患者には眼しか見えない。しかし、患者は理恵を憶えていて、クリニック外で理恵を見ると、あれっ?と表情を変える。

 理恵に患者の記憶はない。クリニックの端末に現れるカルテの患者名は歯を示す記号でしかない。だから、クリニック外で患者からじろじろ見られのは良い気がしないが、省吾が居れば、患者がじろじろ見る事はない。


 以前の省吾は、モールに理恵が着ているかも知れないと思って探した事があった。

 その頃の理恵は、水曜の午前中に食品を買いに行き、専門書を置いてある書店に寄り、そのまま帰宅していた。洋服は専門店で買う。省吾の買い物は平日の午後から夕刻までだ。街宣ヴィークルが出没しなければ省吾は理恵に会うはずがなかった。

「俺も、一般患者?」

「そうよ。私の愛する特別な患者よ」

 エコヴィークルのハンドルを握り、理恵は省吾の治療を思いだして笑った。

「ニュースを見ていい?」

 まもなく十一時だ。省吾は日記の結果が気になっていた。

「いいよ。日記の結果が気になるのね」

 理恵は省吾の考えを理解していた。

「そうだね」

 フロントガラスに大粒の雨が落ちてきた。

 省吾はナビゲーターをテレビに切り換えた。

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