九 私はあなたを愛してる

 二〇二五年、七月二十日、日曜、二十一時過ぎ。

 理恵は何かをふっきるように、妻が用意した真新しい下着とパジャマを持って風呂へ行った。


 進行が早すぎないか?

『早くない。十分もすれば、菅野はマンションに着く。ケイコも、同じように風呂に入る。

 菅野は気づいていないが、理恵はケイコと似た所がある。菅野と十年も暮せば、理恵は、今のケイコのようになるはずだった・・・』

 はずだったって、十年後の理恵も、ケイコのようになるのか?

『お前と暮せばそうはならない。良い方向へ進む。テロメアの型が一致してる。テロメラーゼの分泌が促され、良い方向へ進む』

 ふうっ、安心したぞ・・・。テロメラーゼって、どう言う事だ?

『分子記憶だ。大筋は、お前が作品中で考えているとおりだ。これからは理恵を頼むぞ』

 わかった・・・。

 省吾は、理恵が風呂から出たら野菜ジュースを飲めるよう、グラスを冷凍庫で冷やして理恵を待った。


 省吾は、歯科治療の時、理恵が省吾の気を害さぬよう治療法を言い訳のように説明したのを思いだした。

 あの時、理恵は俺を年寄り扱いした。俺は間抜けに見えのただろうと思い、歯ブラシの使い方を教えようと俺の歯を磨いてみせる理恵を見下した・・・。

 だが、一生懸命な理恵に気持ちは変った。理恵は魅力的な眼をしてる。横から見た鼻の高さはマスクをしていても高く、マスクの下の整った容貌を想像できた。

 理恵は通り一遍の治療法を説明し、他は知らぬ振りをした。あの時、理恵は俺の変化を見抜いていた・・・。


 一時間ほど過ぎても理恵は風呂から出てこなかった。脱衣所へ行って声をかけたが返事がない。省吾は思いきってドアを開けた。

 束ねた髪を頭上にピンでとめ、理恵は湯に浸かったまま浴槽の縁にもたれ、声をかけても起きなかった。

 妻もしょっちゅう浴槽で居眠りした。妻の娘もだ。浴槽は女に共通する安心の精神状態を醸しだすようだ・・・。

 そんな事を考えながら何度も声をかけると、やっと理恵が眼を開いた。

「眠くて動けないの・・・。ベッドへ連れてって・・・」

 アルコールのせいだけじゃない。これまで溜まった全てが身体から染み出てる・・・。

 省吾は浴槽に入って理恵を立たせ、バスタオルに包んで抱きかかえた。理恵の身体から放つ熱さを感じたが、湯はぬるめで、のぼせた様子はなかった。


 理恵を仕事場の隣の、省吾の寝室へ運び、手早く身体を拭いてベッドに寝かせた。脱衣所から持ってきた下着を着せ、パジャマを着せた。体調が心配で裸体など見る暇は無かった。首筋に指をあてると心拍は安定している。呼吸も正常で熱はない。

 酔って眠っているだけだ。このまま寝かせよう・・・。

 省吾はサイドテーブルに飲み水を用意して、理恵の衣類と荷物をソファーに置き、洗濯物をネットに入れて洗った。

 このままだと、理恵は明日、仕事を休まねばならないぞ・・・。

『明日は海の日で、休日だぞ』

 マリオンの声が省吾の心に響き、省吾は、明日は休日だと気づいた。



 居間に戻った省吾はバーベキューの残りを摘まみ、ビールを飲みながらテレビのニュースを見た。

 二度にわたる原発事故で国土を喪失したにも関わらず、政府は原発停止を宣言するだけで、全面完全廃止を宣言しなかった。

 マスコミは、山田総理が語った原発の代替エネルギーを論じて経済利害だけを述べ、放射線汚染で国土を損失させて国民財産を奪った電力会社と政府の責任を追求をしなかった。

あいかわらずテレビ関係者も専門家も、正義に基づいた発言より、権力と財力に密着した発言をしてる。国民を蔑ろにして経済利益を追求する国家に未来はない。その一語に尽きる・・・。


 省吾はビールを持って仕事場へ行き、タブレットパソコンの日記を書いた。

『国民生活を考えず、馬鹿ばかり言っている内閣と政府の人間を、全て更迭せねばならない。内閣にしろ政府にしろ、国民を思う首長を探さねばならない。そして、震災復興をしなければならない』

 省吾は理恵との生活を考えたが日記には書かなかった。思考で方向付けして以後は何も思わないのが、田村家に伝わる良き体験をする秘伝だ。



 二十四時過ぎ。

 仕事場と居間の照明を薄明かりにし、仕事場の仮眠用ソファーベッドに入った。このベッドは、省吾の家に訪れる出版社の担当者が、日頃の睡眠不足解消に使っているだけだ。

 トイレは仕事場と、隣接した省吾の寝室、妻の寝室、客間と居間の五か所にあり、理恵がトイレに行くのに居間の照明は必要なかったが、初めての家が暗いと、何かと不安を感ずると思い、照明を消さずに光量を少なくしていた。


 深夜一時過ぎ。

 人の気配と熱さを感じ、省吾は目覚めた。ベッドの横に、生成りの綿のパジャマの理恵が長い髪を背に垂らしたまま素足で立っていた。

「どうしました?」

「すみません。ベッドを使ってしまって」

「気にしないでください。気持ちは悪くないですか?」

「ええ、だいじょうぶ。久しぶりに良く眠りました。あの・・・」

 理恵は何か言いたそうにしている。

「野菜ジュースを飲みますか?酒の後にはいいですよ」

 省吾は身を起こした。理恵を居間へ連れてゆき、のんびりするように言って座卓の前に座らせた。オープンキッチンの冷蔵庫から野菜ジュースのパックを取りだし、夕方用意したグラスを冷凍庫から出して居間の座卓に置いた。


「お風呂から運んでくれてありがとう」

 湿気が凍りついたグラスに野菜ジュースを注ぐと、グラスを見ながら理恵がそう言った。

「溺死しなくてよかった。体調が悪ければ救急車を呼ぼうと思って急いで身体を拭いた。

 パジャマを着せた後で、眠ってるだけと気づいた。溺れたんじゃないかって、慌てたよ。衣類は洗ったから、明日には乾く・・・。

 裸は見てないよ・・・。

 ジュース、どうぞ」

 省吾はジュースのグラスを理恵の前へ置いた。


 グラスを手にして理恵は省吾を見つめた。理恵の放つ熱さが増し、芳しい香りがする。

「見ても良かったのに・・・」

 理恵は目を伏せた。ふたたび省吾を見つめ、ごく自然に、

「私はあなたに夢中よ・・・。

 最初に会った時から、ずっと慕ってた・・・。

 ずっと愛してる・・・。

 こうして、思いが叶って、とってもうれしい・・・。

 だから、今、私を見て。いっしょに暮らすんだから、早いか遅いかの違いだけだよ。

 相性とか性格なんて、時間かけてもわからないよ。

 だからお願い・・・。お互い、ふつうに話したい・・・」

 と言った。

「わかった・・・。

 俺も気持ちは同じだ・・・」

 そう言いながら、省吾は困った。どうしてよいかわからなかった。


 理恵は、くすっ、と笑い、

「もう一度お風呂に入りたい。いっしょに入ろ」

 ジュースを飲みながら、省吾を見ている。

「うん・・・」

 省吾は承諾した。

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