七 歯科衛生士 理恵
二〇二五年、七月十六日、水曜、午前中。
N市W区の、自宅作業場の机で、タブレットパソコンのメール着信チャイムが鳴った。発信者は菅野理恵、歯科衛生士からだった。省吾が彼女に会ってから一週間が過ぎていた。
「携帯に何度も連絡したのですが、登録ナンバーしか着信できないようになっています。
そちらから090 **** **** に連絡ください。
今日の私は、夫が帰る20時までお休みです」
Y歯科クリニックの彼女も水曜が休み。変則的な週休二日だった。省吾はタブレット携帯で映像非表示通信した。美人の歯科衛生士の顔がディスプレイに映ると、話に集中できない。
回線が繋がった。
「すみません。迷惑通信が多いんで、登録ナンバーしか着信できないようにしてました」
省吾は彼女に挨拶し、通信について詫びた。
「いえ、当然です。気にしないでください」
「映像通信すると、美人がディスプレイに映って話に集中できないので、非表示にしました。先生はすごく美人だから」
省吾は正直に感じているままをいった。
「美人だなんて、困ったな・・・。そんなことありません」
歯科衛生士の声とともに、タブレット携帯をあてた省吾の耳が熱くなった。
「こちらは文書を消去しました。変った事はありませんか?」
「今のところ何もありません。復興大臣の辞任を書きました?」
「いえ、書きません。暴言を吐いて、自分から辞任の機会を作ったみたいですよ。よほど、大臣を辞めたかったんでしょうね。身内に右翼がいるみたいです」
「それなら、注意してくださいね」
「わかりました」
「ところで、今度の日曜日、主人と、そちらへ伺っていいですか?」
「はい、ぜひ来てください。ホームパーティーをしましょう。先生は飲めるんでしょう?」
「ええ、底なしです。理恵って呼んでください。先生と呼ばれるのは恥ずかしいな」
「わかりました。旦那さんはお酒を飲めるんですか?」
「あまり飲めないんです。運転手です」
「もし二人で飲んでも、近くだからタクシーで帰ればいい。場合によっては泊まってもかまいませんよ」
「もおぅ~、まだ飲んでません~」
笑い声とともに熱さを感じる。
「魚と肉はどちらが好きですか?」
「ベジタリアンです。彼は肉が好きみたいですけど、魚も好きです」
「うちは二人ともベジタリアンです。肉も用意しましょう。飲み物の好みは?」
「ありません。飲み物は私が用意します。田村さんは何が好みです?」
「飲めれば何でも。底なしなんです」
「麻酔が効かないって言ってましたものね」
「鈍いから利くまで時間がかかるんですよ」
「それはないでしょう~」
「いえいえ、そうみたいです。
昼食を兼ねて十二時からにしましょう。バーベキュー用の鉄板があるから、そこで調理すればいい。家の前に緑地に黄色の旗を立てておきます」
「W通りのレストランTの近くでしたね?」
「W区から来たら、レストランTのすぐ先です。以前、イタリアンレストランでした」
「ああっ、わかりました!広いポートがあるとこでしょ。
あそこが全て自宅なんですか?」
「ええ、自宅と仕事場です」
「仕事は今も塾を?」
「ええ、要望があれば大人向けに・・・。仕事は、来た時にお見せします」
「楽しみにしてます」
「では、今度の日曜正午前に。汚れると困るからラフな格好で来てください」
「わかりました。それでは、日曜に」
通信は繋がったまま切れない。
「どうしました?」
「五分しか話してないんですよ・・・」
タブレット携帯をあてた耳から、感じている熱さが遠のいた。
「話し足らない?」
「うん・・・」
「どうしたんです?」
「実は・・・、不満なんです。仕事して、夕方帰って、ご飯作って眠って、仕事して。
休みは疲れて、何もする気になれなくても、彼は何もしてくれないし・・・」
「彼に放ったらかしにされてる?」
「それに近いの・・・」
「子供は?」
「いらないって」
「先生は結婚して何年?何歳?」
「三年よ。三十一。子供を欲しいの・・・」
途中から、声が小さくなった。
「でも、彼があれをしてくれない・・・」
「彼は、するのが嫌い?」
バーチャル3Dディスプレイに顔が映れば、こんな会話はできない。
「興味ないみたい・・。いえ、興味ないわ」
理恵の夫は女に興味がないのではない。この歯科衛生士の理恵に興味が無いのが、理恵の言葉から伝わってきた。
「理恵さんは?」
「私は好きよ。お酒と同じで底なし・・・」
理恵は溜息をつくように言った。
「私と同じだ・・・。いっそ、新しい相手を探して、別れたら?」
「彼もそう言うの。でも、今さら・・・」
「めんどうですか?」
「ええ、妙な相手は困るし、いっしょになっても、夫みたいなのは実体が掴めない」
「そうでもないですよ。理恵さんは魅力的だから、相手が放っておかないでしょう。私が独り者なら、そうしますよ」
「なら、そうしてください。奥さんがいても・・・」
しまった、と思う理恵の思いと熱さが伝わってきた。
「そう言われるとうれしいな。でも冗談でしょう」
省吾はとりつくろった。
「冗談なんか言わないわ。あなたは私に好意以上のものを持ってた。私も興味があったから、変った人だ、と覚えてた・・・」
携帯をあてた耳が熱い。本音だぞ。
省吾は耳からタブレット携帯を離し、映像表示にした。
頬を赤らめた理恵が恥じらうように、ディスプレイに現れた。
「そう言ってもらえて、とてもうれしいですね。
わかりました。何をしたらいいですか?
いや、これから我が家に来てください。旦那さんの仕事は何です?」
「○△○○銀行です」
理恵は夫から阻害されて心を病んでいる・・・。省吾は放って置けなかった。
「仕事が終ったら、我が家へ遊びに来るように連絡して、あなたは今すぐ来てください。その方がいいでしょう」
「わかった。すぐ行くね。途中で買い物するから、待っててね!」
恋人に話すように言って通信が切れた。省吾の耳に理恵の熱さが残っている。
成り行きのまま話したが、何か妙だ。事が進みすぎてる・・・。
そう思う省吾に精神生命体マリオンの声が響いた。
『気にしなくていいぞ・・・』
二十分後。
強い陽射しのポートに、小さな白のエコヴィークルが停止した。ドアが開き、ジーンズにスニーカー、白のポロシャツ、ポニーテールの、長身の理恵がポートに立っている。荷物を取りだす姿は、かつてイタリアンレストランだった建物と広いポートに映えた。
「あなたにしては美人ね・・・」
居間の窓から、妻がつけいる隙を見つけるように理恵を見て、その場を離れた。
「これ、ビールです。冷えてるうちに、飲んでください」
広いオープンキッチンで手土産の缶ビールのケースを妻に渡し、理恵は自己紹介した。
「うちのから聞いてるわ。あなたのファンらしいから、面倒見てあげてね」
理恵より頭一つ分背が低い妻は、姐御気どりだ。
「えっ?」
「ああ、聞いてないんだ。私は別れるつもりなの。飽きたから・・・。
でも一人で放りだすんじゃ心配だけど、あなたが居れば安心できる」
話しながら、妻はビールのケースを開いた。
「私は、そんな・・・」
理恵は俯いて当惑している。妻は理恵にグラスを持たせた。理恵のグラスにビールを注ぎ、自分のグラスに半分ほどビールを注いだ。
「乾杯!」
妻は理恵のグラスとグラスを合せ、
「彼はいい人よ。興味があるとああなるけど」
ビールを飲み干した。
省吾は缶ビールを持ったまま、オープンキッチンとフロア続きの居間で、テレビのニュースに見入っている。
省吾はビールを飲みながら、TVのニュースを見た。
東海地震発生から四ヶ月が過ぎた。
ここ数年で非常な進歩を遂げたロボット技術により、破壊した浜岡原発の冷却作業は進み、原発の二次的事故は免れていた。だが、都市の復興は進むものの、使用済み核燃料保管場所と、放射性廃棄物の処理方法が確定しないため、原発廃炉作業は進んでいなかった。
震災後のサミットで、山田総理は、
「『原発廃止・自然エネルギー発電法』により、早急に原発に代るエネルギーを考えねばならない」
と声明を発表したが、他国首脳陣から、福島原発破壊事故同時の総理の発言が問われ、
「十年前の発言と同じで、新たなエネルギーが検討されていない。口先だけだ」
と追求された。過去に政権与党だった自由党と民生党も、山田総理に責任追及と退陣を迫っている。
原発を停止しても維持経費はかかる。原発を完全廃止し、放射線が地表に漏れない地下深くに放射性廃棄物を埋設しても、放射線物質が完全に崩壊するまで維持経費はかかる。
原発事業は過去の与党自由党が、使用済み核燃料処理を未解決のまま見切り発車し、長年、資金をばらまいて国民の口を封じて進めてきた政策だ。
現在、野党の彼らも、福島原発当時与党だった民生党も、過去を考えずに好きな事を言っている・・・。
『日本が混乱してるこの機会に、中国も韓国もロシアも、日本の国土と領海を侵略しようと狙ってるぞ。議員連中は、こんな事実もわからない阿呆の集団だ』
とマリオンの思いが省吾に伝わった。
マリオン、どう言う事だ?
省吾は思いを伝えながら、居間から仕事場の外と、オープンキッチンの外を見たが、烏はいない。
ふたたびマリオンの声が伝わってきた。
『国会議員の多くが、高級官僚になれなかった者たちだから、実態を知らないんだ』
マリオンは政治に詳しい・・・。
「田村さん、仕事は、何をしてるんですか?」
コマーシャルになった時、理惠がキッチンから居間の座卓に料理を運んできた。
理恵が近寄ると、省吾は理恵の熱さを感じながら、フロア続きの隣室を示し、テレビを消して仕事場へ案内した。
居間の北西は省吾の仕事場だ。居間との仕切りは外してある。大窓がある図書室が居間に隣接しているように見えるこの仕事場は涼しい。
省吾の家は、北西側を東西に走る市道から見おろす敷地にある。
仕事場の北西側は、全面が机の高さから天井まで届く大窓で、中央の窓は固定されている。左右の窓は中央の窓と同じ縦寸法で、幅が二メートル、ハッチ構造で開閉できる。
全ての窓が三重合せガラスの積層構造で、耐衝撃防弾断熱防音強化電圧偏光構造だ。電磁波量と光量調整が可能でレーザーを遮蔽し、防弾する。
今は中から外が見えて、外から中が見えないようにしてある。中と外のどちらからも見えない採光だけにもできるが、外が見えないのは、狭く暗い空間が苦手な省吾にとって、開放感を遮断される感がある。
「偏光ガラスで、こっちから外は見えるけど、外から中は見えないんだ・・・」
左右の壁に、本を分野別に並べた本棚がある。右の壁から左の壁まで続く大きな机が窓に向かって置かれ、デスクトップパソコン二台とタブレットパソコン二台が置いてある。正面の窓を遮光すると、左右の窓から机に光が入り作業しやすい。
「いつもデスクトップを使ってる。タブレットパソコンは携帯用だ。文章を書くには大きなディスプレイが楽だからね」
省吾は缶ビールを飲みながら話し、理恵を見た。
「・・・・」
理恵は本棚の本に見入っている。省吾は、居間の食卓にいる妻の視線に気づいた。
「ご飯にしましょう」
「ええ・・・」
居間は、家の中央側の防災壁に囲まれた一部がフローリングで、他はみなカーペットが敷かれている。仕事場側は畳の間で大きな座卓がある。寝転んでのんびりするなら居間の畳の間がいい。全てのフロアで床暖房が利く。オープンキッチンは冬も暖かだ。
『そうね・・・。夏は居間の畳がいいね・・・』
マリオンの声がした。理恵の声のような気もする。
『もしかして、マリンは理恵に精神共棲してるのか?』
『そうだ・・・』
『驚いたな・・・』
省吾は何かを理解し始めていた。
昼食をすませ、片づけを終えた。
理恵と妻は居間で雑談しながら夕方まで昼寝し、その後、ビールを飲みながら雑談した。
十九時近くに菅野が理恵を迎えに来た。日曜にバーベキューする約束をし、その時に改めて挨拶すると言って夕食を食べ、酔いのまわった理恵を連れて帰った。
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