六 恫喝と歯科衛生士

 二〇二五年、六月三日、火曜、午前中。

 N市W区の省吾の自宅仕事場で、セキュリティモニターの着信アラームが鳴った。

 通信相手は映像も番号も非表示にしている。省吾は通信回線をオンにした。


 モニターに、髪を七三に分けメタルフレームのメガをかけた神経質そうな男が現れた。

「私は大政同志会の近藤だ。エネルギー政策の批判は政府批判だ。君の立場を考えて、言動に注意したまえ」

 通信相手は穏やかに話して通信を切った。大政同志会は天皇政治を復活させようとする最右翼だ。


 固定電話の番号は簡単に調べられる。だが、日記に書いた原発問題が、どうして大政同志会に知られた?マリオンが知らせたとは思えない・・・。

 省吾は外を見た。晴れている。マリオンの声を待って戸外を見まわすが烏はいない。

 デスクトップパソコンから日記の内容が漏れたか?デスクトップパソコンのネットワークは無接続だ。

 仕事場は天井も壁も床も電磁波遮蔽の金属ネットが埋めこまれている。窓は三重合わせガラス三枚で二層の窒素ガスを封入した積層構造だ。

 一枚の三重合わせガラスは、アモロファス超合金の極細ワイヤーが入った耐衝撃の防弾断熱防音強化電圧偏光ガラスで、耐衝撃断熱防音樹脂を挟んだ三重サンドウィッチ構造だ。電磁波量調整が可能でレーザーを遮蔽する。仕事場全体は特別に二重に電磁波遮蔽されている。

 盗撮や盗聴、不正アクセスはないはずだ・・・。デスクトップパソコンから日記の内容が漏れる可能性はない。まず、電源ケーブルから調べよう・・・。

 省吾はデスクトップパソコンの電源ケーブルを接続したまま、セキュリティモニターの屋内回線は切らずに、全ての外部通信回線を遮断して日記を書いたが、その日は大政同志会から通信はなかった。


 その後。大政同志会から三回の通信があった。省吾はそれらの通信を無視した。日記の内容が大政同志会へ伝わった理由はわからないままだった。



 六月十一日、水曜。

 自宅に、I市のY歯科クリニックから、一年経過時の歯科検診案内が届いた。引っ越したばかりでN市にかかりつけの歯科医院がないため、省吾はI市のY歯科クリニックへ行った。

 昨年、省吾を担当した歯科衛生士は居なかった。知った顔ぶれは二人ほど。他は年配者もいるが新人のようだ。省吾は昨年の歯科衛生士を思いだして懐かしくなった。初めて胸がキュンとなる感覚を知った。

 彼女は省吾くらいの身長で細身。細面でマスクの外からわかるほど鼻筋が通って高かった。左の目尻から頬に小さなほくろが三つ、正三角形に散ばっていた。少し離れた、目尻の下がった大きな眼が印象的だ。他の患者を治療する時、左の二の腕にもほくろが三つあるのが見えた。

 遠くから見たマスクを外した彼女は、唇が薄く口角が上がっていた。歯科検診結果を説明する彼女が傍にいるだけで、すごく熱く感じたのを省吾は思いだした。

 もう彼女に会えないのか・・・。



 Y歯科クリニックから帰宅後、省吾はテレビニュースを見た。

 被災地を視察した震災復興担当大臣が、

「津波に襲われればマッチ箱のような家は潰れて当前だ。東日本大震災から何も学ばなかったのか?」

 と暴言を吐き、二日後の今日、辞職した。


 過去に、東日本大震災の震災復興担当大臣が、訪れた震災地で福島県知事を見下した暴言を吐き、その事を報道したらテレビ局を潰す、と地元テレビ局を脅した挙げ句、翌日、辞職した。

 今回の震災復興担当大臣の態度も、あの東日本大震災の震災復興担当大臣と同じだ。

 今回も派閥の懐柔策として、総理は、現内閣に批判的な立場の人物を震災復興担当大臣に任命した。その人物が依頼され、断れずに大臣になったと言われている。

 起用された震災復興担当大臣は、大臣になって権力を得たと思っていた。辞任する機会を狙っていた大臣の思わく通り2なったのかも知れないが、更迭と同じだ・・・。

 総理は、党内反対勢力を大臣に取り入れて不満分子を吸収したと踏んのだろうが、自分で首を絞めてしまった。これでは野党に追求の種をばらまくことになる。これで過去の政権同様、現政権も終りだ・・・。


 午後。

 W通りに停車した街宣ヴィークルから低周波が響いた。防音された屋内で感じるのだから、外は大音量だ。省吾がオープンキッチンのハッチタイプの窓を僅か開くと

「政府のエネルギー政策を批判するな」

 と怒鳴り声が響いた。大政同志会から通信が来なくなくなって安心したら、今度は街宣ヴィークルだ。



 七月九日、水曜、午前中。

 快晴が続いている。街宣ヴィークルが来ないのを見はからい、N市H街道にあるショッピングモールへ出かけた。延ばしていた一ヶ月分の食料の買い出しだ。


 モールに着くと、妻と待ちあわせ時間を決め、省吾は書店に入った。

 科学関係の雑誌を見ていた省吾は左背に熱さを感じた。本人をじかに見ないよう確認すると、専門書のコーナーから白いサンドレスに白のミュールの背の高い女がこっちを見ている。あの歯科衛生士だ。日記の内容が実現したのだろうか?


 省吾と目が合うと、歯科衛生士は歯科専門書を手にしたまま省吾を見つめて微笑み、こっくり頷いた。マスクをしていない彼女は省吾が思う以上に口角が上がって美人だ。

 省吾はゆっくり歯科衛生士に近づいた。

「もしかして、歯科衛生士の先生ですよね?昨年、私を治療してくれた・・・」

「ああ、やっぱり田村さんですね。その後はどうですか?」

 歯科衛生士は、左手に載せた専門書のページを右手で押さえて省吾のそばに寄り、省吾の眼を食い入るように見ている。歯科治療中に省吾に質問した時の眼差しだ。


「今年の検診で、磨き残し6%、出血5%でした。それに、様子見の虫歯が一本・・・。検診の最後は、3%と2%になりました」

 省吾は歯科衛生士が放つ身体の熱さを感じた。

「がんばって、これからも続けてくださいね」

 歯科衛生士は微笑み、専門書を閉じた。


「今はどちらのクリニックへお勤めですか?」

 省吾は歯科衛生士に尋ねた。

「こちらのD歯科クリニックです。実は家がW区なんです。I市のY歯科クリニックはこちらの勤務が決まるまでの二年契約だったんです」

「やはり、そうでしたか」

「えっ?知ってたんですか?」

 歯科衛生士は驚いている。怪訝な顔だ。

「最初に会った時、話し方を聞いて、N市の人かと・・・。

 先生がいなくなって、医院へ行く楽しみがなくなりました。

 Y歯科クリニックの娘さん、と思ってました」

 省吾は本当にそう思っていた。


「名前は菅野理恵です。Y歯科クリニックの先生と苗字が同じなので、よく勘違いされました。最近の人は上の名、下の名なんて言いますけど」

 下の名と聞いて、思わず省吾は歯科衛生士の下半身を想像した。想像力の悪い癖だ。


「今日は、お買い物ですか?」

 歯科衛生士は小首を傾けて省吾を見ている。

「ええ・・・。お願いがあるんですが・・・」

「何でしょう?」

 歯科衛生士の眼が探るようにきらきらと輝いた

「時々、メールしていいですか?」

「えっ、どうしてです?」

「あなたのファンにしてください」

「ファンは困ります。でも、どうしてですか?」

「一目惚れです。あなたを見てると暖かみを感じる。穏やかになれる。こんな年寄りですみません」

「困りました・・・」

 歯科衛生士は目尻に笑みを浮かべたまま専門書に視線を移した。歯科衛生士の放つ熱さが増した。

「アドレスを、会ったら渡そうと思ってた。気が向いたらメールください」

 省吾はズボンの腰ポケットから、メールと通信番号のメモを取りだして渡した。

 歯科衛生士はメモを受けとり見ながら、

「気がむいたらですよ・・・」

 と小声で言った。



 書店の入口に、明らかに右翼とわかる、麻の詰襟を着た二人の男が現れた。

「私を知らない振りしてください。後で説明します」

 省吾が囁くと、即座に歯科衛生士は状況を理解して省吾から離れ、専門書を見つめた。

 省吾はキャップを少し深めに被りなおし、サイエンスを手にとってページを開いた。この日の省吾は、緩めのチノパンにティシャツ、薄手の綿のカーディガンだ。

 視界の隅に、書店の客を見る詰襟の男たちが映った。こちらを見て、男たちは省吾に気づかずに書店を出ていった。


「すみません・・・。もう大丈夫です」

「何だったんですか?」 

「現政権に賛同する右翼だ。経済界のまわし者らしいんだ・・・」

 省吾は歯科衛生士の耳元で囁き、かいつまんで日記に書いた出来事を説明した。

 今日ここに来る事は、デスクトップの日記に書いてある。内容が漏れた可能性がある。

「それって、映画みたいですね!」

 歯科衛生士は目を見開いて興奮している。

「映画は結末を想像できるけど、現実は近未来すらわからないよ・・・」

「日記に、結末を書いたらどうです?意外とうまくゆくかも知れませんよ!」

 歯科衛生士の眼がいたずらするように笑っているが、馬鹿にしてはいない。眼差しが穏やかで真面目だ。どこかで見た眼差し、マリオンの眼差しに似ていた・・・。


「途中までしか書いてないんだ。もっと詳しく書けば、奴らを排除できるかも知れない」

 妙に納得する省吾の前で、歯科衛生士は眉をひそめて不安な顔になった。

「もしかして、私も、登場する?」

「それはない。いや、別の文章で登場してる。出会ってアドレスを渡して、そこまでだ」

「私の事は書かないでください。夫もいるし、こちらに仕事が決まって、やっとおちつけたんだから・・・」

 歯科衛生士は省吾を信用してる様子だ。

「わかりました。消去しておきます・・・」

 マリオンの説明では保存文章の削除はできない。訂正文を書くだけだ。その事をこの歯科衛生士に説明しても理解されないだろう・・・。


 省吾は話題を変えた。

「実は、引っ越したんです。W通りのレストランTの近くに。ここから近くです。

 よかったら、旦那さんといっしょに遊びに来てください。

 そうすれば、メールもしやすくなる。私も妻から妙に思われない」

「妙って?」

「あなたに気があるとか・・・」

「本当は、そうなんでしょう?」

 歯科衛生士はさらりと言って目尻に笑みを浮かべ、省吾の眼を見ている。

 省吾は、歯科衛生士の放つ熱さが増したのを感じた。

「実はそうです・・・。私の事は、消去すべきだと思ってますか?」

「そんなことありません。最初は変った人と思ったけど、やっぱりそうでした。でも、正直なんですね」

 歯科衛生士は微笑んでいる。

「迷惑でした?」

「ええ、とっても・・・」

 歯科衛生士は微笑みながら専門書を閉じ、

「今日は、これで・・・」

 とレジへ行った。専門書の会計を済ませ、省吾に会釈して書店を出ていった。



 帰宅後。

 マリオンはタブレットパソコンで日記を書けと言ってた。今度から日記はタブレットパソコンに記録しよう・・・。

 省吾は、セキュリティモニターの外部通信回線を全て遮断してデスクトップパソコンのネットワークを未接続にし、デスクトップパソコンの日記をメモリーカードに保存し、デスクトップパソコンの電源を切った。

 タブレットパソコンを起動して、メモリーカードをダウンロードし、歯科衛生士から言われたように、彼女に関する文章の訂正文を書いた。


 これで彼女に関する記録は消えるが、俺の記憶から彼女は消えない。現体制の批判と今後の方針と未来計画も俺の頭の中だ。日記の文章を消去しても俺の記憶は消えない・・・。

 省吾は記憶の中の右翼の男にそう言った。すると省吾の意識に言葉が響いた。

『それでいいぞ』

『マリオンか?』

 外を見た。道路を隔てた民家の屋根に烏がいる。

 省吾は烏を見ながら考えた。


 東日本大震災の福島原発破壊事故以来、以前は放送されていたが現在は放送されなくなった政府広報がある。

 かつて政府は、原子力発電を「原子力は二酸化炭素を発生しない、クリーンで安全なエネルギーです」と政府広報で放送し続けたが、経済優先の危険な政策でしかなかった。

 原発は政府官僚が画策立案し、電力会社が推進した事業だ。電力会社に限らず、経済界は政府官僚に天下り先を作り、政府官僚は経済界のための法案を通して、企業に法律に守られた利権を与えて事業を進めさせた。内閣府は政府広報と称して経済界の宣伝を行い、経済界はエコロジーを隠れ蓑にして安全に、危険な原子力エネルギーを使い続けた。

 こんな経済界と政府はくたばればいい。内閣は権力を持ったと信じている無能集団に過ぎない。東日本大震災のあの時も俺はそう思った。


 福島原発破壊事故から原発の危険を知ったにも関わらず、政府は原発完全廃止を強行しなかった。福島原発破壊事故後、政府内閣は福島原発の経験を省みず、無責任に「電力不足解消に原発を安全に使う」と言い、停止している原発を再稼動させるため、何もできなかった原子力保安院の名を原子力規制庁と名を変え、もう一度「絶対的に安全なストレステストの基準を作らせる」と馬鹿を言ってきた。

 数十年以前に作られた原発施設は老朽化している。原子炉は放射能汚染で内部補強はできない。福島原発が破壊に至った条件を基準にすれば、新たに高度な安全基準を作っても、今現在、それをクリアする原発はどこにも無い。それは誰でもわかる。

 電力会社は「原発廃止・自然エネルギー発電法」による首都近郊の原発に下された原発廃止命令を無視した。

 政府のあらゆる政策の責任を問われない事が、結果に責任を持たない政策と、多くの害を産んできた・・・。


 省吾は、次のように日記を書いた。

『経済のために危険な原子力政策を立案実行した政府の責任者と、原発事故を起こした電力会社の責任者は、個人資産を以って原発事故の国民に対する保障と賠償を行ない、子孫に対しても賠償責任を負わせる。

 そして、公務員特別措置法を廃止する。

 福島原発事故後に制定された「原発廃止・自然エネルギー発電法」を確実に実行する』


 省吾は日記を書き上げると窓の外を見た。

『それでいいのだ・・・』

 民家の屋根にいた烏は、いつのまにか省吾の家の近くにある電柱に移動していた。

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