第3話
逃げる。
走って、逃げる。
後ろからは、何度も、何度も、異能による攻撃が飛来していた。
彼の異能は火球を生み出すものだった。
正確には、触れた物質を燃焼させるバレーボールサイズの力場を生み出し、その力場に一定ベクトルの速度を与えるというものだろう。
直接俺を燃やさないことから、力場を発生させられるのは自身を中心とした半径1mほど。
遠隔操作はできず、投射速度もなんとか反応し、避けられる範囲に収まっていた。
逆に一番危なかったのが接触の瞬間だろう。
会話できるほどの間合いだったのだ。
彼は、その気になるだけで俺を殺せた。
でも、そうはしなかった。
火の玉ではなく恨み言をぶつけることに費やした。
無傷ですんだわけではない。
何度か、受けた。
右肩、膝横、左腕。
焦げて、焼けて、熱された。
痛い。
熱い。
胸が苦しい。
生きている。
駆け抜けてきた道は惨憺たる有様だった。
燃えて、溶けて、焼け崩れ。
平和とはかけ離れた、戦場か地獄かと言った景色。
彼が、とくべつ強力な異能を持っていたわけではない。
これがスタンダードな人間の能力なのだ。
もちろん異能の種類に大きく依存するが、少々の訓練で、家一軒、街一つを倒壊させるだけの破壊をまき散らせるようになってしまう。
人は、手を取り合って生きる生き物だ。
けれど、その手には、触れるものをみな傷つける鋭利な棘が生えている。
だからこそ、この国は、疑いようもなく狂っているのだ。
途中で、彼はどうしたことか足を止めた。
俺は走り続けた。
走って、走って、バスで行くはずだった道のりの全てを走りきった。
「着いた……」
空港入り口前、降車場。
バスや送りの車から吐き出されてくる利用者が、溶けて穴の空いたスーツ姿で駆けてきた俺を奇異の瞳で観察していた。
きっと、もう。
予感があった。
この先に、終わりがある。
分かっていても、足を止めはしなかった。
日本国営航空、国際線、3番チェックインカウンター。
そこに座る化粧の濃い女性に、俺は、航空券ではなく、与えられた身分証を提示した。
名刺ほどの大きさをした1枚のカードだ。
顔写真どころか、名前も、役職も、一切書かれてはいないけれど。
「どちらへ?」
一目で了解した様子の彼女は、カードを受け取ることなくそう言った。
「韓国、金浦空港。
最速で」
女性は、営業スマイルを崩すことなく、無言で小さく頭を下げた。
カウンターを出る。
人波を掻き分け、ファーストクラス専用のラウンジへ。
入り口には先回りしたのか空港職員が待っていて、何の手続きも介すこと無く中に案内してくれた。
天井にはシャンデリア、床一面を覆う足が沈むような絨毯、小洒落たバーテーブルがポツポツと。
贅を尽くした、豪奢な一室。
俺と、待ち構えていたもう一人の、二人きり。
少しの驚きと、多分な納得。
ここが、そうなのか。
俺は、ゆっくりと足を前に進めていった。
彼は上質なスーツにその身を包んでいた。
袖口には洗練されたデザインのカフリンクスが銀色に輝く。
皺一つない顔立ちは若々しくも、黒い瞳は知性と経験を深々と湛える。
なにより、その所作の重々しさと言ったら、分かっていても、見慣れていても、自然と見てしまう、引き寄せられる。
彼は、彼こそが。
いまの時代を築き上げ、維持し続ける現代の偉人。
日本国首相、
「やあ、久しぶり」
声もまた、奇怪な引力を宿していた。
鼓膜の震えが、全身に向かって心地良く沁みる。
返事をしなければならない。
そう思わされてしまう、声。
彼の異能など、この身にはもはや一片たりとて届かないというのに。
「直接であればあるいはとも思ったが……そうか。
残念だよ、とても」
未練そうに、惜しむように、首相は言う。
「君は、誰よりも忠実で優秀なエージェントだったのだが」
それは本心からの称賛だった。
俺にとっては侮辱であり、罵倒だった。
多くを、殺した。
この男の命令に従わされて。
藤司鷹史。
この男は、『洗脳』能力者だった。
「とはいえ……、今回ばかりは少々失望させられたよ」
好き勝手に言ってくれる。
お前を喜ばせるための一日じゃない。
思ったけれど言えなかった。
負け惜しみのようで、言いたくなかった。
「混乱しただろう。
不運にも襲われた。
仕方がないと言えば、仕方がないことではあるが……なぜ諦めた、なぜただ逃げた?
その力の意味と価値、使い方も、分からない君ではないだろう」
愚問だった、
らしくもない。
自己評価が低いのか、それとも俺の評価が高いのか。
「……これでも俺、貴方のこと、結構尊敬してるんですよ」
「ほう?
軽蔑されているものと思っていたが」
「貴方の命令で色々と見てきましたから……分かります。
貴方が、全ての国民の無意識を縛っていなければ、この国は、とうの昔に滅んでいたでしょう」
今の人間は、銃以上に容易く人を殺せるだけの力を手に入れた。
そんな連中が安全で幸福な社会など築き上げられるはずもない。
『洗脳』によって無意識に枷をかけられた今でさえ、法を一顧だにしない暴徒集団は生まれては消え、生まれては消えを繰り返しているのだ。
消してきたからこそ、俺はそれを知っている。
――俺は、この男の兵隊として、5年近くを過ごした。
生き延び、成果を上げて、評価を得るほどに、使われる頻度は目に見えて増えた。
言うことを聞かない体の中、意思決定すら歪められる悍ましさに耐え、どうにか抜け出せないかと足掻くほどに、この男の能力について理解を深め、手腕を思い知らされるばかりの日々だった。
『洗脳』は恐ろしい。
だがそれ以上に恐れるべきは、藤司鷹史という、支配者たるべくして生まれてきた男の能力そのものだった。
知られてしまえば全てが瓦解するプレッシャーの中で、20年。
藤司は、なんでもないことのように、緩く笑う。
「どうだろうな。
勝者こそが正義だ。
私が歴史を紡いだからこそ、この歴史は、私を除いては成り立たない」
年月と。
奪った命と。
救った命。
立ち姿からも、見て取れた。
「そうかもしれません。
ただ……殺すよりも多くを救い、平和を維持するシステムを作り、20年近く維持してきた。
そんな人の手から、たった一人で逃れられるとは思えませんよ」
「ならば他の力を借りれば良い。
誰に持ちかけ、どう売り込むべきかも、知っていただろう。
それこそ、そう、不運と言ったが――」
続いた言葉に、俺は、一時、忘我した。
ただ、怒りに、我を忘れた。
◇◆◇
「先の遭遇戦は、君にとって、最大の好機たりえたはずだ」
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