第2話
すぐさま家を飛び出すというわけにはいかなかった。
俺は監視されている。
知らない間に幽霊になっているのでもなければ、俺はまだ生きている。
生きている以上、悟られてはいない。
であれば、このアドバンテージは活かすべきだ。
生きるために。
チケットを手配する手段はあった。
俺の持つもう一つの身分証は、未成年が同行者無しで即日海外へ渡航するのに充分な力を有している。
問題は、空港についた時点でそれが使えるかどうか。
必要なのは時間だった。
せめて飛行機に乗るまで隠し通せれば……いや、強制的に飛行機の航路を変更される可能性も考慮に入れるべきか?
なるべく近場の……韓国あたりを目的地にするとして……到着までに何時間かかる?
到着後の逃走経路は?
交通手段、宿の確保、飲食の手配、どこを取っても国内とは勝手が違う。
――安全圏までの遠さ、道のりの険しさを思い知る。
笑ってしまいそうだ。
そんな場所、本当にあるんだろうか?
「折れるな、俺。
絶対に、生きるんだ」
死ねない。
死ぬわけにはいかない。
生きなければならない。
尽きるまでは。
始まりがどうだったのかは、もう、思い出せもしないけれど。
「行ってらっしゃい」
いつも通り、昼飯用の千円札を受け取って玄関を開け放つ。
扉を出てから、行ってきますを絞り出した。
絞り出さなければならなかった。
母に罪はない。
けれど、きっと、母は殺されるだろう。
異能は遺伝しない。
異能は各個人に因るものだ。
しかし、人を形作るのは生まれ育った環境なのだ。
あの男は可能性を許さない。
蟻の一穴だとしても見逃さないからこそ、今がある。
俺がいる。
俺は、家族を見捨てるのだ。
見捨ててでも生きるのだ。
死後地獄に落ちるのだとしても、生きるのだ。
……地獄に落ちるのは、もとからか。
でも、ああ。
だからこそ。
――素知らぬ顔で登校し、校内で一つ、実験をした。
目覚めた異能に関する実験だった。
やはり、俺の異能は、この国の人間に作用した時その意識を奪い取る。
それも、俺にとって極めて都合の良い形で。
空港までのルートを、それで決めた。
母には、『少し遠出をする』とメールした。
親友には、『じゃあな』と別れを告げた。
そして、俺はこの閉ざされた自由なき国からの脱獄を開始した。
まずコンビニに入った。
大きなコンビニだ。
10台くらいの車が止まれる駐車場が併設されていて、2階には飲食スペースも完備している。
当然、トイレもデカい。
1人、背格好の近い社会人が入っていくのを確認してから、後をついてトイレを借りた。
中に彼以外の客はいなかった。
俺は、用を足そうとズボンを下ろす彼の背中に忍び寄り、そっと、首筋に手を当てた。
「……」
彼は言葉を発することなく眠りに落ちた。
一瞬のことだった。
俺はただ触れて異能の力を流しただけ。
こみ上げる何かを、唾と一緒に飲み下した。
馬鹿馬鹿しい。
全てが自分の妄想で、この国には自由があって、昼間の実験結果も偶然で、なんて、まさか期待していたわけでもないだろうに。
……嘘だ。
正直になろう。
もう、取り繕う必要はないんだから。
期待していた。
この先に、日常の続きがあることを。
信じたかった。
これまでの全てが、数多を踏み潰した上に立つものではないのだと。
「行こう」
もはや感傷に浸る時間はなかった。
賽を投げた。
覆水は盆に返らない。
進むしか、ない。
気絶した男性をトイレの個室に押し込んで、スーツを剥いだ。
制服を脱ぎ捨て、熱の残るそれを身に纏う。
着こなし方は知っていた。
知らぬ間に身につけていた。
飲み物と携行食を買ってコンビニを出た。
スーツを着た、早上がりの独身社会人の顔をして。
自転車はここに捨てていく。
未練はあるけれど、連れてはいけない。
俺――斎藤由羽は、ここで消えるのだ。
電車に乗って空港に向かう途中、関係のない駅で降りて、また別人に成り代わった。
終点まであと数駅のところだ。
ここからはバスに切り替える。
消えた俺がどこに向かったのか、辿らせないための苦肉の策だ。
複数の交通機関を使用し、さらに徒歩区間を挟むことで追跡の難易度は大幅に高まる。
元の成功率を考慮すれば、結局、気休め程度のものだけれど。
――問題が起こったのは、眼を避ける迂回路として夕暮れの海岸線を進んでいたときだった。
風は強く、波も騒がしかった。
夕陽が熱く、眩しくて。
……それに、尾行された経験は少なくて。
気づいたのは、もはや回避不能なほどに接近した後だった。
その人物は、異様な恰好をしていた。
まずもって、秋口というにも早い季節だというのに肌の露出が一切ない服装だ。
真っ黒なロングコート、もこもことしたズボンに脛の半ばまであるロングブーツ、手にはグローブの念の入れよう。
更に加えて、頭を包むヘルメットが風体の悪さを際立たせる。
首元までぴっちりと張り付くような裾が伸びていて、空気穴のようなものは見当たらない。
耳の辺りはヘッドセットのように膨らんでいて、目の位置には2つのレンズ――それもカメラのレンズが取り付けられている。
人の服――これが人間のする服装なのかは諸説あるが――を着た人型ロボットと言われても信じてしまいそうな外見だった。
しかし、俺は知っている。
彼、あるいは彼女が分厚い遮断機の下に肉の体を持つ人間であることを。
その人は言う。
スピーカー越しだが、男性の声だった。
『金条さんには止められた。
貴様に罪はないのだろう。
身に覚えもないのだろう。
だがッ!!
貴様が、歩夢の仇がッ、のうのうと生きているこの今がっ、私にはうしても我慢ならない……!
――悪魔の手先よ、ここで死ね!!』
殺意の理由は知れていた。
その名前にも覚えがあった。
諦念と納得が胸を満たした。
死ねないという思いが、すぐさまそれを塗りつぶした。
「ごめんなさい……っ!
ごめんなさいッ!!」
俺は背を向け逃げ出した。
謝罪の言葉を無意味に投げつけ逃げ出した。
歩夢。
夏休みの京都で俺が殺した大勢の人達、その、一人だった。
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