第51話 諏訪護



 瞼の上に温かな光を感じ、眠りから覚めた護は一瞬見慣れない明るさに戸惑った。蔵での生活ではありえない光の量だったからだ。レースのカーテンがひかれた窓からは冬晴れの日差しが差し込み、小綺麗な洋間は床暖房が効いて部屋は暖い。



 布団からむくっと起き上がり、ここがあやめの家だと気づく。



「もう、蔵はないんだった……」



 また蔵で寝ていた夢を見ていた。蔵がなくなってからよくこの夢を見る。目元が微かに濡れていた。



 あそこは居場所のない護の逃げ場だった。あそこにいると気分が落ち着つき、蔵が護の心に寄り添ってくれる、そんな感じだった。だから蔵がなくなくなってしまったのは自業自得だとはいえ、寂しかった。



 ただ、誰も死ななくて良かったとも思う。兄があそこで死んでいたら、こんなふうにあやめのうちに泊まりに来る日など永遠に来なかっただろう。


 モコモコのパジャマ姿も可愛かったな……


 昨日廊下ですれ違ったお風呂上がりのあやめを思い出し、護は枕をぎゅっと抱きかかえ、布団の上をごろごろする。



 そういえば、とあたりを見渡すと昨日一緒に寝ていた太宰と兄、悠護の布団がすでに片付いていることに気がつく。


 枕元の置時計は十一時を回っていた。誰一人自分を起こしてくれなかったことに、少しショックを受ける。



 失礼のないようにジャージから着替え、下の階に降り、リビングに顔を出すと、ちょうど兄とあやめがキッチンにいた。あやめはポニーテールにピンクのエプロンをし、あろうことかあーんと悠護に何かを食べさせようとしている矢先だった。



「……」



 護が起きてきた事に気がついた二人は、慌てて離れる。それを取り繕うようにあやめは引きつった笑顔を護に向けた。



「お、おはよう。よく眠れたみたいでよかった。もうすぐお料理できるから座って待ってて」


 明らかに間の悪い登場だった。



 もう帰りたい……と思いつつも、エプロン姿のあやめは可愛く、我関せずの態度でうんと頷きソファーに座る。ふと、太宰や凛の姿がないことに気づく。



「あれ、太宰さんたちは?」



「お母さんと駅に行ったよ。鳴海先生、もうすぐ着くって連絡あったから迎えに行ったの」



「何で太宰さんまで?」



 その何気ない問に悠護が腹立たしげに答える。



「気ぃ使ってくれたんだよ。お前も少しは空気読めよ」



 今日はクリスマスである。そして二人は恋人同士。そういうことか、と護が「わかったよ」と不貞腐れながら部屋から出ていこうとすると、突然リビングのベビーベッドから櫻子の泣き声が聞こえてきた。



 大き声出さないで、とあやめは護と悠護を見やり、櫻子を抱っこする。櫻子は「まーっまーっ」と泣きじゃくる。



「やっぱりわかるのかな、ママがいないの。さぁちゃんはママっ子なのよね。もうすぐ帰ってきまちゅからねぇー。あ、護君、少し、さぁちゃんあやしててくれない?私、ミルク準備するから」

 

これまで泣く子をあやしたことのない護は焦りに焦る。


「えっ、できないよっ、何すればいいの?」


「そのへんのおもちゃで気をひいててくれればいいから。あ、悠護さんはそのサラダお皿に移しててもらえます?」


「あ、うん」


 あやめは手持ち無沙汰の兄弟にテキパキ指示し、手慣れたようにミルクを準備する。護はガラガラを持ち、音を鳴らすと櫻子はなんとか泣き止み、嬉しそうに笑う。


「兵藤さん、赤ちゃん泣き止んだっ」


「あ、そうだ。言うの忘れてたけど、私名字変わったの。だからあやめでいいよ」


「え、そんな急に……」


「急にも何も、しょうがないでしょ、親の都合なんだから」


「はい、じゃあ……」



 悠護の視線が気になるが本人がそういうのだからこればかりは仕方ない。



 リビングの窓から外に車が止まるのが見え、お母さんだ、とあやめはミルク作りもそこそこにリビングを出ていくと、続いて悠護も「お父様にご挨拶に行ってる」とリビングを出ていく。


「みんな行っちゃいまちたねぇー」と護がガラガラを振ると、いきなりリビングのドアが勢いよくしまった。


 それにビクつくと、櫻子は護の着ているセーターの袖をグッと掴んできた。



『やっと二人になれたね。護君』



 そう頭に声が響く。



 えっ?護は慌てて周りをみるが、自分と櫻子以外誰もいない。



『私だよ、私』



 目の前の櫻子が「まーまー」と喋る。



「ま、まさかね……」



『酷いな護君。いつも一緒にいたのに。私が壊れて泣いてくれたでしょ』



「な……何、言ってるの?」



 櫻子は「まーまー」と話し続ける。



『もう護君と離れるのは嫌』



「……」



『だってあの人、私と護君を引き離そうとするんだもん。だから、私の器を作らせてそのツケをあの人に払って貰ったの』



「えっ?器?」



『あ、そうだ、竹林でのこと覚えてる?あれ、私だったんだよ。お姉ちゃん、時々空っぽになっちゃうから、ちょっと体を借りたの。それにあの頃は私の器が流れちゃいそうで。あのときの、護君、可愛かったな。でも、あの触手、いつも邪魔するのよね。悠護君の事だって事故に見せかけて殺してあげようと思ったのに』



 何をこの子は言ってるんだ……



「殺してなんて頼んでないよ……」



『だってあの子、護君をいじめるから』



「やめてよ、そんなこと……」



『優しいね、護君は。でも、心配しないで、もう殺さない。あの人にはお姉ちゃんの彼氏でいてもらわないと困るから。だって、護君、お姉ちゃんのこと好きみたいだし』



 夢でも見ているんだろうか……



『だって私、まだ歩けないから……護君が浮気しないか心配で。歩けるようになったら必ず護君を迎えに行くね』



 その時、リビングのドアが勢いよく開いた。



「ただいまーっ!櫻子ーっ会いたかったよぉ!」と見知らぬコートを着た男性が入って来る。



 サ・クラ・コ、



 彼女が何者なのかわかった瞬間、護はガラガラを投げ捨て、リビングから転げるように逃げ出した。


 


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