第33話 兵藤あやめ
「えっ?妊娠?」
護と言い争ったあと、そのまま屋敷を飛び出し、母親に電話をしたあやめだったが、スピーカーの向こうから聞こえてきた彼女の話にあやめはひどく驚くこととなった。
「黙っててごめんね。急なことだったし、お母さんもどうしたらいいのかわからなくて。少し一人になって考えたかったのよ」
「そ、それはわかったけど、えっ、妊娠って、お母さん付き合ってた人いたの?」
「まあね。でも、あやめの高校入試が終わるまで黙ってようってその人と決めてたの。ほら、家庭のゴタゴタで試験に落ちたらあやめに恨まれると思って。なのに、お父さんたら、あたしの入院のことまでしゃべっちゃうなんて、あの人はあやめには何でも話しちゃうのね。もっと口の硬い人だと思ってたのに」
まさか占いで入院の事実を知ったとも言えない。
「でも、入院してるって、具合悪いの?」
「いくら若作りしてても高齢出産だからね。切迫早産しかけて緊急入院したの。とりあえず、絶対安静だけど状態は落ち着いたわ。そうしたら、なんだかあやめの声が聞きたくなっちゃってね」
「お母さん……」
「ごめんね、あやめ。何の説明もなくもお父さんのとこに行けなんて言って。本当勝手な母親よね。でも、あなたに余計な心配させたくなかったのよ」
それでも言って欲しかったよ、とは言えなかった。母の重荷にはなりたくないし、聞き分けのない子だと思われたくなかった。
「私のことは心配しなくて大丈夫だよ、私はこっちで楽しくやってるから。それに、これからはちゃんと菜々実さんのこともお母さんって呼ぶし。だからお母さんは体のことと、赤ちゃんの事だけ考えてあげて」
「あやめ……ありがとう。大好きよ」
「私もだよ、お母さん」
それより、とあやめは聞く。
「相手の人って誰なの?」
気になるのはそこなのだ。つばきはきまり悪くあははと笑う。
お母さんっ、とあやめがせっつくとつばきは歯切れ悪く答える。
「だよね……まあ、なんていうかその……あやめも知ってる人よ」
あやめはそれにピンとくる。
「……まさか鳴海先生とか?」
大正解〜!と開き直った明るいこえがスピーカーから聞こえてくる。
いつの間に……
鳴海先生とはあやめが昔からお世話になっている心療内科の医師である。歳は三十代後半くらいで、童顔ためか歳より若く見え、長身の割には痩せており、いつも母が「若いんだからちゃんと食べなきゃ駄目よ」と背中をバンバン叩いていたことを思い出す。
「信じられないーー」
「あやめのことで色々相談してたら、いつのまにか、そういう感じになっちゃったのよ」
それから、なんだかんだと鳴海のことを話し、回診の先生が来たからとつばきは電話を切った。
とりあえず、母が元気だったことに安堵するも、母の妊娠とその相手があやめの主治医であったことに動揺し、あやめはスマホを握り締めあてもなく歩いた。
気がつくと図書館のあたりまで来ていた。午後のうだる暑さの中歩き続けていたため、ひどく喉が渇いていた。自販機で飲み物を買おうとして、ふとコーラに目が行く。さっき護にひどいことを言ってしまったことに自己嫌悪しながら、普段は飲まないコーラを買って飲んでみる。久しぶりに飲んだコーラは意外に美味しかった。
涼むために図書館に入り、妊娠について調べていると、あっという間に夕方になっていた。そろそろ帰ろう、と席を立ち図書館を出たところで、メガネをした普段の悠護と出くわした。
「あっ」
どうやら、悠護も図書館にいたようだった。
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