第32話 諏訪悠護



 何かを知らせるように一斉に林の木々がざわめいた。



 轟々と音を立てる滝つぼから上がったばかりの諏訪悠護からは、とめどなく水が滴り落ちていた。彼は揺れる木立を見上げ濡れた髪をかき上げる。切れ長の目が捉えた先にはひらひらと蝶のように舞う紙切れであった。彼は引き寄せられるように自分のところに落ちてくるそれを手にする。



『お迎えに上がりました』



 これは悠護の使役する式神からの知らせである。もうそんな時間かと、寝起きしていた拝殿へ向かい、下山の準備を始めた。



 険しい山道を降り、立ち入り禁止のゲートの前には黒いセンチュリーと銀髪の若い男が立っている。彼は悠護の使役する式神の凛であり、今日は運転手ということでシャツにスラックスという出で立ちだ。彼はわざとらしいくらいに恭しく一礼した。



「おかえりなさいませ、悠護様」



「ああ」



 車に乗り込むと、凛は悠護様は日々修行に励み、跡取りの鏡であるとかなんとか、悠護を褒めに褒めまくった。凛が悠護を褒める時は必ず何かある。



「何かあるなら言ってくれ」



「恐れながら、良い知らせと悪い時知らせがあります」



 悪い知らせだと?悠護はルー厶ミラーに映る凛を睨む。



「じゃあ、悪い方から聞こう」



「では、いい知らせから」彼はこういう性格である。人間などハナから小馬鹿にしているのだ。



「あやめ様が今、お屋敷の離れに滞在しております」



「えっ……本当に?」



 思わず悠護は呆けたように聞き返していた。



「はい、それでですね……」



 凛は歯切れ悪くことの経緯を話す。確かに解せない話ではあったが、彼の話では確実にあやめとの距離は縮まっているようだった。



「ということは、もう、僕は彼女をあやめちゃん呼び、お姫様抱っこをして、連絡先まで交換しているということか?」



「まあ、そうですね」



「全く余計なことを……」



 そうは言ったものの、頭の中ではあやめとのドキドキキュンキュンの共同生活の妄想が広がっている。だが、けして顔には出さない。悠護は凛に見えないように小さく『よしっ!』とガッツポーズを取る。


 

 そう、この2日、悠護は禊と偽り、一人山に篭もり、拝殿で寝ずにあやめへ恋愛成就の術をかけ続けていた。そして、近々行われる花火へ誘い、告白をしようと考えていたのである。しかし、自分不在であるにもかかわらず、こんな形であやめと急接近しているとは、つくづく術の力の恐ろしさを感じた。



 人を呪わば穴2つ、とはよく言ったもので、術をかける方にもなんらかの障りがある。その術が強力であればあるほど、その反動は大きい。



 それでも、兵藤あやめだけは誰にも譲りたくはなかった。



 悠護はけしてモテない訳ではない。むしろモテる。だがそれは、彼の見た目や家柄などで好意を持たれるだけであることが、本人には透けて見えてしまうため、言い寄られてもそれほど本気にはなれなかったのだ。



 しかし、東京から来たというあやめは悠護の家ことも知らず、本好きの友人として接してくれ、そして可愛かった。初めて自分から人を好きになった。だから、振られるのが死ぬほど怖かった。こういうところが自分の弱さだと、理解はしているつもりだ。だが、もうなりふりなんてかまってられない。彼女は高等部でも話題に登るほど男子に人気があるのだ。


 そんな鬱屈した気持ちを1ミリも見せることなく、悠護は聞く。



「で、悪い知らせというのは?」



「どうやら、護坊っちゃんもあやめ様をお慕いしているようで、それはまだわかるんすけど、太宰さんもあやめ様の色香にやられてしまったようでして……」



 人を呪わば穴2つ……



 無論、護には負ける気はしないが、太宰には勝てる気がしない。なにせ太宰は諏訪家の式神とはいえ、神である。人の心をあやつるなど容易いことだろう。



「それと、告るの今は辞めたほうがいいっすよ。あやめ様の実の母親がご病気みたいですから」


「……」 

 

 つか、いつ俺が告るなんて言った?なんで知ってる?と心情穏やかではなかったが「それはあやめちゃんも辛いだろう」と平然とやり過ごす。



「そうだ、凛。図書館で降ろしてくれ。久しぶりに読書がしたい」



「かしこまり」



 そう言うと凛は勢いよくハンドルを切った。






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