第9話 兵藤あやめ



 あやめは近所の小さな公園の前で足を止めた。暑さのため公園に人の姿はなく、蝉の声だけが聞こえている。



 隣を歩く諏訪悠護も同じく足を止めた。



「どうしたの?」と日傘で陰る悠護の横顔を見上げる。鼻筋の通った綺麗な顔にはこの暑さでだというのに汗一つかいていない。



「ここで大丈夫です。すぐ近くですから」



 近所の目もあるが、太宰の件もあり、よく知りもしない異性に自宅まで送ってもらうのはなんとなくためらわれた。



 悠護は少し寂しそうに笑った。



「もしかして、嫌われちゃったかな……?」



「そういうわけでは」と首を振るも、どんな顔をしていいかわからない。



「そうだよね、ごめん」



 彼は「はい」と日傘をあやめに渡す。



「けど、嬉しかったんだ。普通に本の話しができる友達ができて。別に友達がいないわけじゃないよ。でも、僕の周りにいる人達は利権とか、立場的なもので僕といてくれるだけだから。本当の友達って出来たことがなくて」



 誰しも生まれてくる環境は選べない。嫌な態度を取ってしまった事をあやめは反省した。



「諏訪くんのお兄さん……」



 彼をそう呼ぶと、悠護で良いよ、と笑う。



 彼もまた家の都合で辛い思いをしてきたのかと思うと胸が痛む。



 あやめもまた、親の都合で理不尽なことを強いられることが多かった。



 両親はあやめの幼い頃に離婚し、彼女は母親に引き取られた。母親は仕事人間であり、家事はろくすっぽ駄目で、あやめは家政婦の如く母の世話をしてきた。彼女は気が強く、身勝手で、あやめいつも彼女に振り回されてきた。



 そして、極めつけは――



「その時が来たら必ず迎えに行くから」



 とあやめに何の相談もなく、父親の所へ預け、マンションも引き払い、彼女はひとりで何処かへ行ってしまったのだった。だから今は離婚した父親の元で暮らしている。



 父親はすでに再婚していたが、幸い、父の奥さんはとても理解がある人で「娘が欲しかったの」とあやめを歓迎してくれ、一緒に料理をしたり、服を買いに行ったりと実の母以上に仲良くしており、小一の弟も「お姉ちゃん」と懐いてくれている。怖いくらい平穏で幸せなだった。


 そうは言っても、けして寂しくないわけではない。あんな人でもたった一人の母親だ。確かに理不尽なことばかりの生活だったが、それでも愛情のある人ではあったのであやめは母が嫌いにはなれず、離れるのはやはり辛かった。


 だから、せめて、その時が来るまで、笑顔を絶やさずこの幸せな生活を楽しもうと決めていた。そして迎えに来た母にここの生活がどれだけ楽しかったかを自慢してやるのだ。



 あやめは彼に笑顔を向ける。

 


「大丈夫ですよ!嫌いになんてなってませんから。私も悠護さんともっと本の話したいです」



「本当、嬉しい」



 彼はそう言って笑った。しかし、その笑いは一瞬ニヤついたように見え、気のせいではなく背筋が冷たくなるようなゾッとする感が拭えなかった。


 なんか、今すごく怖かった……


 空気を吸っても吸っても息苦しかった。何だこの胸騒ぎは?と思わず胸を押さえる。


 ふいに彼の手があやめの頬に触れる。その手は恐ろしいほど冷たい。



「君は本当に、良い子だね」


 

 そう微笑む弓なりの彼の目が冷たく紅く光った。ように見えた。いや、確かに光った。それはあやめの知っている「芥川」の皮を被った、全くの別の生き物のように見えた。



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