夕暮れ
朝川渉
第1話
ああ、毎日がほんとうにひもじくて、寒くて、痛くて、つらいだけで、夜寝床に入ることだけが唯一の楽しみだと思います。僕の仕事というのはその家庭からはみ出している11匹の猫にそれだけの餌と服を与え、ときどきは掃除してまわるというような仕事で、普通だったら家の主人がそんな仕事自体あることさえも忘れるようなものだったのです。だから本当に毎日いやになります。だれがぎゃあぎゃあさわいでいるだけの子猫にねんね、ねんねと言い続けながら、自分は寒いのや腹がへるのを我慢し,いつまでも外を歩く友人たちのことをたった一人で考えつづけていたいと思いますか。でもそれでも、それら全てのことがおわり、やっと寝床についたというときはそれはよい心地でした。そこにあるシーツは毛布だって少しくさくて、誰かが集めてきたせいであるものもうるさかったりするのですが、そこにいると安心して眠れました。
僕は多分、猫なんだと思います。けれど,僕が住処としていた寝床の店ではクリスマスが終わったあたりから人々の出入りが減り,代わりに夜遅くになると人騒ぎが起きるようになり、気配が怪しくなってきていました。冬にはいると仕事口がなくなっていました。その頃には見知らぬ誰かが出入りしていてもいいという空気さえも失われており、ある時また僕がくたくたになって戻るとそこにあるはずの草色のシーツやすすきで作った毛布もなくなってそこにはきれいなあざみ柄の布地が敷いてありました。そこの主人は「新しい住人」を僕に紹介し、働き口がなくなったことを告げました。それはいつもの杓子定規もいいところの話し方でした。僕は自分のことを、きれいな毛並みの、まだ、自慢できる猫ではなくぼろきれか何かかと思っていました。僕は一人で外に出て,何度目かの身震いをしました。外はつめたい。そう考えると、つめたいと夜は似ている。なぜか、そう思いました。そしてかろうじて近くの公園で眠ることにしました。ぼうぼうに生えた草の中で僕は眠ろうとして、やっともうあの寝床が本当にここにはないことに気が付きました。古ぼけた僕だけの寝床がなくなって僕は初めて孤独を知りました。いつだったか、家族がまずなくなり、それから忙しさのために友達がいなくなり、それらは寝入りばなに僕が考えててもいいような物事でしたが、今度は自分にとってゆいいつの寝床さえもなくなりました。僕はそのときはじめて涙をながし、くろくなっていく目尻や手を舐めてもなにも感じなくなったあとで、今度は自分のかんがえのおもむくまま、死ぬことを思い浮かべてみました。目を閉じて世界中を思う気持ちになってみると、僕はちっぽけでそこにひとりで吸い込まれそうになっていました。するとそこには、あの僕の毛布か、なにかが現れたような感触がしました。どうしてか僕は周りに問い、誰も何も答えませんが,僕はそれから毎晩、寝る前に死ぬことを考えてみることにしました。その想像は毎日、少しずつ先に進んで行きます。数日後,僕はもうただの骨になって、草むらの中に横たわっていました。そうしていると僕の毛も次第に風で吹き飛んで、それから臭い僕の身体は溶け、周りの生き物は喜び,そうしているうち、今度は土になろうとし始めました。そうすると逆に周りの音がうるさいくらいに聴こえて来るのです。僕に話しかけるのでもなく、ただ皆が勝手にお喋りをしているようで、僕は突然はっとしましたがでもそこで声を上げる僕はもういません。僕でなくなった僕はもう、寒くも暑くも、悲しくもありませんでした。僕はそこでじっとしながら、そこで僕を見ているという不思議にずっと囚われていました。そしてわけもなく毎朝、息を吹き返します。僕は歩き回ります。毎晩、寒い中で、公園の物音や、寒さや、飢えに怯えていたのやあの毛布を思い出すたびにおなかが寒くなり、萎んでいくようになっていたのもなくなり、今となっては自由に好きなだけそれを思い描くことができました。そうして僕はある時,池を飛び越えてみます。一瞬、そこには溺れている僕が映って、僕はそれを上からみて,見下ろしながらなぜか、笑ってしまいそうになっていました。僕はときどき、楽しくなってトラックの前も猛スピードで走り抜けました。それからあの猫たちのいる家まで行ってもみました。猫たちの数は減るどころか増え、もう誰も世話がかりを勝手でるような様子はありませんでした。皆が自由にあちこちを歩き回り,食べ物という食べ物を食い荒らしており、僕はそれを数日は見続けた後で、そこから物を盗んできたりもしていました。僕はいそいで走りながらも,そこでおそらく逃げ遅れたもういっぴきの僕が袋だたきにされるのやぺしゃんこになるのをひとりで、目にうつして居ました。僕は病気の猫たちを見ます。それから死んだ猫のこともみます。どれも、これも、それは僕だったはずで、僕はそういうものにもういまは、憧れてしまうのです………僕は数日後、腹を満たすために食べるのをやめました。そうするとからだは目に見えて痩せて行きましたが、あたまはもっと冴え冴えとして来ていました。
ある日、それは嵐が止んでから数日経ったころのこと、僕は何か自分のものが欲しいと思いました。生まれてからこのかた、最後まで自分のものだったのがないなんて寂しいと感じました。食べ物,寝床,知り合い,それはごく当たり前の出会いで、じぶんから何かを欲しいと思ったことなんてあまりなかったのは、急にそれが一番寂しいことだと思ったのです。貧しい猫だって自分の寝床くらいは置いているし、自分の石とか、魚の骨とかを集めては意味もなく毎日そうやって、あたりまえの幸福のように鏡を覗き込んでいます。でもそんなふうにして見るみたいなものが、僕には無いんじゃないか。そう思い,僕は伸び切った爪を研ぎ、ぼろぼろ溢れていく端からそれを忘れさるのは、どうしてかと思い,僕がそれを忘れていたのはどうしてかと考えていました。僕は酒場に行ってみることにしました。そこでうろうろと歩き回ります。僕はもう追い出されても構わないので、こそこそもしませんでした。けれど幾ら歩き回っても僕を激しく唸らせるような出来事はなく、皆が平和そうにしていて、僕はどうしてそんなに、痩せているのかと何度か問われました。僕は歩き回り、それからそんなに沢山の意味のことばや慈悲に似たことばがあることに慄き,けれどまだそのうち、ねこに対するものはどれひとつも無いのだと思いました。そこには、目ぼしいものは落ちてなくって、今度は僕は人間たちを観察してみました。僕をかつて雇っていたのはものすごく太った脂ぎった男でした。そこではすれ違うたび変な匂いがしてて、なんてことのないことに腹を立ててよく怒りました。そういう人間ではなく、なるべく似ていない人を見てみたいと思いました。僕はそこであまり喋らない男を見つけて、その人の近くをついていくことにしました。男はまだ若くて、黒い服を着ていて、あまり特徴がないけれど、僕は「ゆうぐれ」だと思いました。
朝日でも夜でもなく、死ぬでも生きるでもなく、人が一番落ち込みやすい時間帯は、夕暮れです。その「ゆうぐれ」の家まで僕は着いていき、その男が眠るのを窓の外で見届けたあとで、家の中に入りました。僕は「ゆうぐれ」を、ベッドのへりに乗っかりしっぽを揺らしながら見ていました。そして、これを僕のものにしてみようと決めました。僕は久しぶりに、トラックに跳ね飛ばされる気持ちと同じくらいわくわくしました。
一晩めは自分の寝床に戻り、その次の日、僕はまた「ゆうぐれ」のところへ来ました。そのころ僕は、たくさん死ぬ自分のことを思い描き過ぎていて、半分は、もうどこかで既に死んだようになっていました。僕はまだ生きてて何の苦しみも知らないような人間が、こんなにきれいな布地のシャツを着て眠っているのを、数日はうっとりしてながめていました。ゆうぐれはすうすうと寝息をたて、あたたかい生成り色のきたない布団に埋もれています。夕飯をたっぷり食べたので、肌もあたたかな色になっていました。それを見ていた僕はそこに、爪を立ててみたくなりました。もしそうすれば、びっくりして起き上がったゆうぐれは僕を見て、それから追い出そうとするでしょう。けれどその日はそれを見るだけですぐに家を出ました。それを何日か続けたあと、僕はまたその家へやってきました。季節は最早冬ではなく夏の終わり頃になっていました。いく日もあった雨の日を終え、ひとびとは大きな荷車で荷物をひいたり自分の家の掃除を熱心にしていました。夜、僕のゆうぐれはいつものようにベッドのなかで寝ており,僕はまたいつものようにそれを見ていました。けれどその日は,僕がゆうぐれを見ていることに慣れきったあと、いくらかの倦怠をかんじていたのかもしれない僕は布団の上にゆっくりと乗りかかりました。それから下にある上下している胸を見てみました。僕はゆうぐれの、その胸にあるものがなぜかその瞬間、ものすごく知りたいと思いました。ゆうぐれの胸はぴったりと閉じてあり、僕はそれほど近くで人間を見てみることがなかったのと、「ひと」というのはいつもうるさく,油ぎって居ると思っていたのに、ゆうぐれと、家の中がとても静かだったせいでそれは僕のためにあるように思え,僕はひげを揺らしながらその中にいったいなにがあるのかとかんがえ、僕はゆうぐれにもっと近づいてみるため、シャツをビリビリと破いてみることにしました。当然、ゆうぐれは目を覚まして僕を見ました。それれから「だれだ、おまえは」と聞き,僕がこまっているうちに起き上がり,それから部屋の明かりを探しながらも僕の脚を容赦なくつかんでいました。そのとき、明かりが付いたあとで、酒に酔ったあとの赤く腫れた顔をしたゆうぐれは他の人間に見せたことのあるうちどれでもない顔で、笑っていました。それはまるで、子どもが新しいゲームのルールを知った瞬間みたいだったと思います。ゆうぐれがなぜかそれに勝てると思った瞬間だったようです。僕は捕らえられて、それからこわくなって、びっくりした声をあげました。でもなぜか、ゆうぐれという人間はそれを聞いてもっと喜んでいました。「なぜですか?」僕は聞き,けど話は通じません。その瞬間目が覚めた僕は、まじまじとゆうぐれの顔を見つめていました。それはりっぱな鼻筋があり、目があり,口が付いてましたが、それが動き出して、けど僕は何を言われているのかさっぱりわかりません。僕の分かること、それはたくさんの事、それから知らない事、それは多くないことのはずですがそのすべてがそこにあるようでした。僕の思うに、僕はいつのまにかそういったものに浸かりきるということをおぼえており、すべて選ぶものは、いつも天気が同じような天候の変化で起こるように、把握し、信じきっていたので、それは自分の見回る場所にしても同じことで、まだ知らないはずのことでさえ同様に感じていました。ただ一人でいる間はそれでも充分でしたが、僕のしらなかったのは、他人という存在はいつも不意にやってくるということ、それからまだお互いに見知らぬルールを持っていたということで、僕はそのときには、自分のルールのことでさえも忘れていて,また、はっきりと自分は手順を間違えてしまったと感じていました。ああ、僕がゆうぐれを見て最初に感じ取ったもの。僕はゆうぐれの付けた明かりに照らされながら,いま起こされたばかりのような不愉快な思いでそれを考えていました。それは多分僕の知っている、ずうっと前働いていたところでもなく、ずっとずっと前の、それは出来事よりも昔の感情だったときの話で、僕はまだきっと,それらのどれも経験すらしていません。僕はいつも、匂いをかぎ、それがいつかたぶんいつか訳のわかるものになるような気がしており、僕はいつもそんなふうにしてものを選んできたのだと思います。僕はそうして、自分の興味に捉われたせいでゆうぐれに関しては、慌てすぎてしまったのだと思いました。僕は、あかりにおどろき、それから足の強い力におどろき、逃げようとしゆうぐれは、手を噛んだ僕をその場で再び叩きました。それからひどいことに唾を吐きました。僕はさんざん甘えた声で鳴き、捉えるという言葉の意味もわからないまま、幾つもの嘆きや怒りを聞かされつづけました。そうして、いったい僕はそこで何度くらい死にましたか?きっと百遍くらいは死にました。そうして知ったことには,死ぬのは恐ろしく惨めだと言うことで、それは世界ではなく他人からもたらされるという事でした。そうしてただ最後には僕は、その家の中端でひとりで、眠るようになりました。僕は逃げ出すきっかけを見失っていました。僕はゆうぐれの素顔を見てその思い違いにとてもがっかりしていました。僕のような小さいだけの猫は差しはさまれた単純な手のちからで経緯も忘れ去ってしまいました。僕は思い出に縋るのをやめ、ときどきそこにいるようになりました。
僕はゆうぐれを、少しも愛してはいませんでしたが、世話をすることに関して愛情などなくても、僕の母親や父親がそうしていたように、思い出をただ目を瞑ってたどって居れば勝手に体がうごき、そのためにことはなされていて、あとはただ腹を満たすために、単なる獣が肉を食べて居るという気がいつもしていました。なので、僕の両親はあまりひどくはないということで、僕は恵まれていたほうだったとあのときの赤ん坊を手放したあとでこのときにその事を本当に知ったのです。ゆうぐれという人間は、身なりはすごくきちんとして、人に好かれる手順も知っているのに、いつも一人でした。普段からそれはどうしようもなく醜く弱いところがあるせいで僕みたいな猫をそうやってときどき挑発してくるんだろうと思いました。それから、数日がたち、いじめっていうのはまるでゲームみたいだなと僕は思いました。僕が痛がったり、鳴き声を上げるととたんにゆうぐれは満足して僕に優しくなるのです。僕はゆうぐれの手や、それから声も、まなざしも僕に注がれているのを夢みたいに思うときもなぜかありました。それをまだ当たり前に注がれる太陽や,食べ物のめぐみのように僕じしんは、受け取ろうとするのです。おそらく、それは僕にとってのものが僕には未だないせいでしかありませんでした…。僕は愚かさを自身のみでしったあとで、そうしたあとでまったく鳴かなくなりました。それからものをねだることも,綺麗な景色を見上げることも、お腹が空くことももうなくなりました。むかし、たしか僕にとっての世界が生まれたあと、その母親のお腹がちぢみ、そのあとで僕が、確かにものごとをたしかめ、自分の足で色んなことを知ろうとしてきたことをよく思い出し,僕はそれから捨ててきたことや生きてきたことの、その果てにあるものがこのゆうぐれという人間の、カスのくっついた口のほうに向かっているということを知り,そうしてある日は、そこで眠りながらも何故か夕暮れが早くどこかで野垂れ死ねば良いとしらないうち考えるようになり、そのせいか僕の口は重く,もっとも重くなり、いつしか、誰に対してもまったく何も話さないようになりました。僕のことをはなさないのはもちろん,目に映るものや追いかけるものに対しても同様で、なんの気持ちも抱かなくなりました。歩き周りながらも、僕は自分にとってのこころとは何だろうと考えるようになりました。子どもの頃には外をはしりまわったり、他の猫と出会うたび僕は時間がもっと足りないような気さえしていたのに、ー夕暮れのいる世界は僕にとってそんなふうでした。ーはっきり言います,はじめから、ゆうぐれは僕になることに失敗しました。はじめっから、僕は夕暮れを手に入れることに失敗していました。僕は死ぬ事を諦め、またときどきは、お腹が空いたときなんかはだれか見知らぬ人にするように、甘えるそぶりをしてみせました。なぜでしょうか?僕にはちっとも分かりませんが、失ったものの大きさ、それだけはよくわかって居ました。明くる日になれば、しめった空気が乾いたものになるのをかんじとり、僕はあくびをします。けれどそれは本当に何万回目のものだかも分かりませんし、今日もゆうぐれは何万回目のものだかわからない食事を、僕の目の前で悠然と取っていました。この先,待っているだろう倦怠を僕は時折眺めては,いったいどうして、そのことを口にすることもしないのだろうと僕はそこにいて考えます。その考えはいつも、僕の身体を蝕んでいるように思い、そういった僕の病気をどのようにして治せば良いのか方法はわかりません。僕自身の澱んでいったものは他の猫の目にもはっきりと映るようになり、きっと外で見かけた頭の悪い猫のする動作のように見えるのかもしれません。それとも何かが知らないうちに変わり,僕がもっと大人になってしまうのかもしれません。その時僕は、ゆうぐれのことを噛み殺せるほどに間違いを恐れなくなって居るかもしれません。僕は僕じしんの力で、僕や、両親や、これからを含むすべての間違いに対して牙を立てればいいと考えますが、それよりも、いまの世界が整然としてしまっており、僕はそのことを哀しみました。僕は、ここにある事に傷つきました。僕がもっと年老いて,あらゆる事を飲み下しせるようになれば、もしそうしたらそのあとで見るものはもっと、ここよりは美しいものなのでしょうか。僕はそこで伸びをし、それはいつも通りの仕草で,いつもどおりの世界,日常,それからひとびとがいるだけで、僕はぼうぼうに生え揃う雑草らを見つめていました。ーいまここにあるものを僕はみつめ続けるだけになりました。それはすべて、僕のよく知っている夜の冷たさとは違うものでした。僕は外の音を聞き,それから気配を感じ、けれどそれはただあるだけで、僕はそれ以上にはなにも感じ取れませんでした。それは、それから飢えをやっと満たした時の幸福感とも違います。それから僕が遊ぶことに費やしていた、これからいつでも死んでもいいのだというの気持ちーまざまざと輝き、そのときだけ感じられていた、微かな生の予感とも違っていました。僕がゆうぐれに捉えられたあとでここに居てみる事,起こることの全ては,それらを全てを失ってしまったあとで何処にでもころがってあるような、単なる生への傲慢さと何も変わりがないのでした。
夕暮れ 朝川渉 @watar_1210
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